2009年 5月 16日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉108 岡澤敏男 うす赤きシレージの塔

 ■うす赤きシレージの塔

  つぎの歌稿74〜79は明治43年9月に青柳先生と一緒に登山したときの詠草です。(この歌稿は「四四年一月より」として収録されているが余白に書かれたメモにより次の6首が中学2年生〈明治43年〉のときの題材と解釈されている)

74 巨なる人のかばねを見
   んけはひ谷はまくろく
   刻まれにけり

75 風さむき岩手のやまに
   われらいま校歌をうた
   ふ先生もうたふ

76 いたゞきの焼石を這ふ
   雲ありてわれらいま立
   つ西火口原

77 石投げなば雨ふると言
   ううみの面はあまりに
   青くかなしかりけり

78 泡つぶやく声こそかな
   しいざ逃げんみずうみ
   の碧の見るにたへねば

79 うしろよりにらむもの
   ありうしろよりわれら
   をにらむ青きものあり

  このうち77、78の歌はタブーを犯し御釜湖に投石した学友の軽率な行為によって青く泡立つ湖神の怒りが描かれている。そのとき青柳先生は生徒に代って湖神におわびをしたらしい。つぎの「わびませる師」とあるのはそれを指しているのです。
 
ともよ昨日(きぞ)かの秘
め沼に、
石撃ちしなれはつみびと、
わびませる師にさきだちて
そのわらひいとなめげなり
  (「青柳教諭を送る」の下書稿)
 
  このように先生の敬虔(けいけん)な姿の追憶が、長篇詩「小岩井農場」下書稿の余白の2か所に「岩手山に関する追憶/青柳教諭」「あれが網張へ行く道だ/青柳教諭への追憶」と記入したメモと重なっているのでしょう。

  このメモは、花巻農学校教諭の頃の賢治がなおも青柳先生を追慕していた証左であり、晩年の文語詩「青柳先生を送る」に接続するメモワールです。そして〈楠ジョン 青柳先生 パンを食みくる〉のメモもまた深奥に伏せていた先生を引き出す回想録だったのです。

  賢治は先生との別れにあたり、愛する女性を捨てて兵役に就く受難者と受け止め、使徒ヨハネが殉教のため荒野をたどる姿に見立てたのでしょう。それが最終到達形の次の4行です。
 
  痩せて青めるなが頬は
  九月の雨に聖くして
  一すじ遠きこのみちを
  草穂のけぶりはてもなし
 
  聖者のたどる荒野を小岩井農場の広大な草原に比喩しました。晩秋の草原は秋雨にけぶり羊の群れも青刈り玉蜀黍を積む車の往来もなく、いかにも先生の送別にふさわしい寂寥感ただよう情景に描きました。
 
  羊さえけふは群れゐず
  玉蜀黍つけし車も来ねば
  南なる雨のけぶりに
  うす赤きシレージの塔
 
  この「うす赤きシレージの塔」とは上丸牛舎構内にある左右二基のレンガサイロのことで右が明治40年、左が明治41年に建立されている。建立した翌年の明治43年9月に賢治が網張温泉を下る街道からそのサイロを遠望したのです。しかし植林された樹林に遮蔽されて、現在ではレンガサイロを望見することなどまったく不可能となっています。

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