2009年 5月 23日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉109 岡澤敏男 賢治とエーシャ牛

 ■賢治とエーシャ牛

  賢治作品には豊かな馬の匂(にお)いがします。なかでも詩篇「北上山地の春」には洋種馬たちがさっそうと登場しているのです。ハックニー、サラブレッド、アングロアラブの華麗なギャロップ、そして鼻息荒い重挽馬(ペルシロン)の波打つ白い尾など。賢治はそれぞれの馬種の性向を巧みにとらえ描いています。

  馬に引き替え、牛のにおいはさっばりしません。たしかに童話「黒ぶだう」のように仔牛が主役でたのしい作品もあるが、たいていは〈牛やアミーバ〉とか〈牛や馬〉などという並立名詞や、「牛肉」「牛の糞」「牛の皮」といった物質用語に出てくる語彙(ごい)ばかりで生き生きとした牛のイメージが感じられないのです。

  そうしたなかで、珍しく牛の匂いのただよう詩が一篇だけみられます。「春と修羅 第二集」一二六の「牛」というつぎの作品です。
 
  一ぴきのエーシャ牛が
  草と地靄(もや)に角を
  こすってあそんでゐる
  うしろにはパルプ工場の
  火照りが
  夜なかの雲をこがしてゐ
  るし
  低い砂丘の向ふでは
  海がどんどん叩いてゐる
  しかもじつに掬っても呑
  めさうな
  黄銅の月あかりなので
  牛はやっぱり機嫌よく
  こんどは角で柵を叩いて
  あそんでゐる
   (大正13年5月22日)

  これは教え子の就職あっせんで大正12年8月に樺太の豊原にある王子製紙工場をたずねた時の回想でしょう。パルプ工場の火照りを背景にして朧(おぼろ)月夜の草原に機嫌よく遊ぶエーシャ牛を眺めて懐旧の思いがあったのです。賢治がエーシャと表記したのはAyashire(エァーシャ)の「ya」を無声音化したとみられます。

  賢治がエァーシャ牛と初めて出会ったのは明治44年5月15日のことでした。盛岡中学3学年全員が小岩井農場に遠足して上丸牛舎を訪れたときのことです。牛舎を案内する係員がヨーロッパから輸入したホルスタイン種、エァーシャ種、ブラウンスイス種について血統や能力を説明していたとき、賢治はスコットランド産「エァーシャ種」の天を指す鋭い角を注視していました。それは冒険・探検雑誌のグラビアでみたスペインのラスコー洞窟に描かれた牡牛の壁画とそっくりだったからです。その日の牛舎にはエァーシャ種がムンムン繋養されており、天を指す鋭い角を連ねるエァーシャ像を胸深く刷り込んだものと思われます。明治44年の小岩井農場にはエァーシャ種127、ホルスタイン種99、ブラウンスイス種45頭を飼育していたと社史が伝えています。

  ところでサガレンで12年ぶりに再会したエァーシャ牛を、賢治は天を指す角の間に太陽を抱くというエジプト神話の聖牛に見立てたのかも知れません。就職あっせんの樺太行は愛妹トシの霊魂を連れ立つ旅で、やがて遠ざかる霊魂を樺太沖に見送ったのです。そして不思議なベーリング市の御霊屋(宗廟)のトシさんが、朧月夜にエーシャ牛と楽しく遊んでいると幻想したのです。もしかして賢治はエジプト王妃の墓に副葬された聖牛をエーシャ牛に習合させたのではあるまいか。このような浅はかな推理などは、大正11年(1922年)にツタンカーメン王墓を発見したハワード・カーターの顰(ひそみ)にもならぬ夢想というべきでしょう。

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