2009年 5月 30日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉42 小川達雄 青春16

     五、新続々・恋の終末

  賢治の初恋のいきさつを念頭に置いて、また次のメモを読んでみよう。

  「農林一年
  病院木村ト一目見ル 夏休ミ」(「『東
  京』ノート」)
  「四月 高農一年 実習
  木村とふたゝび見る。樹もあ、り、廊柱
    の陰影もあり。」
        (「『文語詩篇』ノート」)

  賢治が思いを寄せたその人は、川原仁左衛門氏によって、日詰出身の高橋ミネさんということがわかった(昭和四十七年『周辺』)。これは姓名のことよりも、日詰の人、ということが大きい。

  それは賢治が日詰の志和城を遠望してそこまで走ったこと、その城跡を四っ角山といったこと等、一連の行動が理解されるからである。賢治は大正六年に

  さくらばな/日詰の駅のさくらばな/風
  に高鳴り/こゝろみだれぬ 四七三

  こううたったが、ほかならぬ日詰で、恋人の隠喩であるさくらを嘆賞して心が乱れたということ。これも、その人が日詰出身でなければありえないことであった。

  ※後に、〔賢治が病院に行った時、高橋
   看護婦は新設の札幌鉄道病院に派遣さ
   れていた〕という意見(佐藤勝治『宮
   沢賢治』二〜四号)が出されたけれど
   も、その病院はこの年十一月の創設で
   ある。それに、研修は東京へ、派遣は
   県内の地方病院に限られ、いずれも病
   院の記録に残されていた。札幌病院と
   いうのは、彼女が結婚して札幌に住ん
   だ、その後のことであろう。

  次に「木村ト」について、であるが、このノートの用例では「長浜ト鬼越ニ行ク」「伯母ト磯ヲ歩ム」のように、それは親しい人との行動を語っていた。

  これは中学一年の教室を回想した歌、

  あざむかれ木村雄二は重曹をインクの瓶
  に入れられにけり

  この木村、といえよう。三年一学期のメモにも、「岩手山、雨、木村、阿部」(「『東京』ノート」)とあった。木村雄二の次女、三鷹市の佐伯香さんも、これらを目にするなり、「これは父です」といった。

  〔その頃父は北の沼宮内駅に勤務してい
  たので、休日を賢治といっしょに過ごし、
  岩手病院にも行ったらしい〕という。

  しばらくぶりの友に、賢治は病院でのことを語り、木村は賢治をつよく誘ったのであろう。「一目見ル」「ふたゝび見る」の語句には、すでにあきらめていたその人を、思いがけずもう一度、それもひと目だけ見た、賢治の切なさが凝縮されている。

  その背景には、その最初のときめきからハダシで線路を走ったこと、最後は雷雨の中の百合の崩落まで、賢治が経験した恋の思いの日々があった。

  その恋は、すべて精神世界の中に限られていたが、その後、賢治はその憧れをさらに清く、高くうたいあげて、数々の童話や文語詩に結晶させていくのである。

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