2009年 5月 30日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉110 岡澤敏男 博物館もありましたし

 ■〈博物館もありましたし〉

  高名な長篇詩「小岩井農場」から2年後に書かれた作品に「遠足統率」(「春と修羅 第二集」)という詩がある。

  これは大正14年5月7日に花巻農学校の生徒を引率して小岩井農場に遠足したときの情景を描いたものです。賢治はこの詩を起草したときすでに来春は花巻農学校を辞職し「本当の百姓になる」決心を秘めており、どこか小岩井農場への惜別を意識した作品のように感じられます。

  中学生の頃から何度も訪れた小岩井農場で見聞したトピックスの羅列にそのヒントが推察されるのです。〈博物館もありましたし〉という断章もその一つ。

  「博物館」とは筆者が以前に館長をしていた小岩井農場「展示資料館」の前身で、通称を「陳列館」と呼ぶ「標本陳列館」のことです。

  この陳列館の開館は明治42年10月15日で、上丸牛舎前を右折する道路の左側にあった瀟洒(しょうしゃ)な洋風建物です。現在の地図でいえば「まきば園」の南端エリアにある焼肉コーナーの一角がその所在地で、建物のあった跡には赤いレンガの礎石がみられます。

  賢治は陳列館をつぎのように回想しています。
 
  もうご自由に
  ゆっくりごらんくださいと
  大ていそんなところです
    (4行省略)
  前にはいちいち案内もだし
  博物館もありましたし
  ひじょうに待遇したもんですが
  まい年どしどし押しかける
  みんなはまるで無表情
  向ふにしてもたまらんですな
    (以下省略)

  陳列館の開館を披露する案内が小・中学校へもとどけられ、来館者に係員がいちいち説明したものだったのでしょう。それが頻繁に訪れる来館者に対応しきれず、「もうご自由にご覧下さい」となったと思われます。これには私にも思いあたることがあるのです。

  明治42年4月の「小岩井週報」は「育牛部事務所ノ不要に帰シ居ルヲ惜シミ…場内ノ農畜産業ニ関係アル標本ヲ漸次陳列シ、場内博物館ヲ開カントハ誠ニ善キ思イツキニテ目下ソノ成案中ナリ。コレニテ、場内モ学校、幼稚園、病院、図書館、博物館、倶楽部、公園等ヲ完備シ、一小楽天地ノ名ヲ背カザルニ至ルベシ」と陳列館の開設を予告していました。

  すでに私立小岩井尋常小学校(37年)、共済会(41年)、また小岩井週報(週刊社内報)も発行していました。そして42年に託児舎(託児所)、医局(診療所)、高知稲荷(小岩井稲荷)が開設されたので、場員は生活品の廉価購入から育児、教育、医療、情報伝達や祭礼行事に至るまでを享受しました。

  このように生活共同体インフラが完備されたのが明治42年で、小岩井農場が一種のビッグバン的な熱気に包まれていたようです。「陳列館」はそれらの文化的イメージを象徴したのでしょう。

  陳列館は昭和5年頃に閉館され育牛部事務所に変わりました。それから70年ほど経た平成3年(1991年)に、小岩井農場の創業100年記念事業として復活したのが育牛部事務所をリフォームして開館した「展示資料館」でした。

  開館当時は館長の私が常駐して来館者に「いちいち案内」もしたものでしたが、現在は常駐する係員の姿もなく「もうご自由に/ゆっくりごらんください」という具合で、さぞや賢治さんもにんまりしていることでしょう。

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