2009年 6月 6日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉44 小川達雄 盛岡の地質調査2

   二、関教授への敬意

  賢治たちの実地調査は、およそ七月に終了して、越えて大正六年三月、『校友会報』第三十三号には「盛岡附近地質報文」が掲載された。

  おそらく賢治は、この題名を記す時にも、友人や先生への感謝と満足の思いで一杯であったのではないだろうか。

  まず最初には、前書きというか、その先頭に置かれた短い一文を挙げておく。これはじつにきちんとした文章で、このようには、なかなか書くことが出来ない。個々に念を押しつつ、丁寧に読んでみよう。

  「大正五年夏期実習として盛岡附近地質
  調査を課せられ、全員十二名を四斑(班)
  に分ちて関教授の指導の下に各斑分担し
  て山河を跋渉し実地に調査を行ひ、野稿
  を統合し地質図を調製し報告を編成する
  を得るに至れり。茲(ココ)に同教授の
  許可を経て本会報に登載し同好の士の参
  考に供す。
   大正六年一月 盛岡高等農林学校農学
          第二部第二年生  」

  ここに賢治の署名はないけれども、しかしこの報文からは、まぎれもなく賢治その人が書いた、という特徴を、はっきり読み取ることができる。

  というのは、第一に関教授への非常な敬意が認められることで、「地質調査を課せられ」「関教授の指導の下に」「同教授の許可を得て」と、この調査はすべてその方針に従って行った、としていた。

  ここには、賢治の誠心誠意が認められるが、それも最初は「課せられ」と関教授の名を出さず、次に名を明らかにして「指導の下に」とするなど、心憎いほどの配慮があった。会報登載のことも、「許可を経て」とあったが、それはもともと、教授の薦めから始まったはずである。こうした教授への随順からは
、むしろ、教授を生徒側に引き寄せていた賢治の姿が推察されよう。

  この調査の野外指導に関して、関教授は出張のかたちを取っていないが、それは年間授業計画以外の、生徒との交流を示していた。この〔前書き〕からは、深く教授に傾倒した賢治の姿が浮かんでくる。

  そのほか、これが賢治の筆、と注意を引いたのは、「野稿」の語である。これは神保小虎著『日本地質学』に出ていて、その末尾には上野の帝国博物館地質鉱物室の解説があった。賢治はそれに基づいて博物館に行き、九月の秩父見学の直前にも、その鉱物に見入っていたのであろう。

  また、この前書きでは、生徒の班を(斑)と取り違えていたが、それは南昌山のことをこの本文では「南晶山」と記すなど、それは稗貫郡の報告書や「『文語詩篇』ノート」にも共通した書き方であって、賢治にも、まま間違いのあることを示していた。

  さて賢治の文章は、読みはじめてみると奥が深くて、あとからあとから、さまざまなことがらが湧いてくる。次にはこの〔前書き〕に続く、盛岡の山々の勢いを記した賢治の報告を読んでみたい。

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