2009年 6月 6日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉111 岡澤敏男 「日英博覧会」のこと

 ■「日英博覧会」のこと

  詩篇「遠足統率」の見どころは小岩井農場にかかわるトピックがいくつも挿入されていることでしょう。定稿には前回あげた「博物館」のほかに「騎兵隊の演習のこと」、「肺炎に罹りやすい風土のこと」、「羊舎に怖い牧羊犬がいること」など四つの話題を取り上げております。ところが初稿から定稿にいたる推敲の過程で削除されたもう二つの話題があったのです。そのうちの一つが「日英博覧会」の話題で下書稿(三)に挿入されています。

   (前略)
  何でも日英博覧会へ
  火山灰だのロームだの
  もう何屯もほりとって
  地質の標本を出したとか
   (後略)

  この「日英博覧会」というのは、日露戦争(明治37〜38年)には同盟をむすび密接な関係にあった日英両国が、明治43年5月14日にロンドンにおいて開催したものです。この博覧会に日本政府は道府県長官を通じて「全国ニ於ケル精良ナル生産品」の出品を勧誘しており、岩手県では小岩井農場にも出品を勧誘したものと推察される。しかし農場の社史にはこの日英博覧会に出陳したという記録はなく、農場に調査を依頼しました。すると明治42年6月11日付「本部日誌」に次の記録があったことを知らせてくれました。

  来信 日英博覧会出品ニ関シ承諾書提出方照会ノ件 発信 日英博覧会出品ニ関スル解答ノ件

  ただしこの発信は表題のみの記載しかなく「出品の諾否」についてどのような回答をしたのか内容が不明とのことでした。これでは賢治が「地質の標本を出したとか」といった裏付けにはならないのです。

  そこで思いついたのは、この博覧会出品に関する事務処理は地方長官(実際は郡役所が代行)により行われたという側聞です。出品諾否の照会事務も当然このルートに従うはずなので、小岩井農場から発信された文書写しも岩手県が保管する日英博覧会関連文書に綴(つづ)られていると推察したのです。

  そこで県庁に行き文書綴を閲覧すると、「本部日誌」記載の「日英博覧会出品ニ関スル解答ノ件」の写しが明治44年の「勧業課文書綴」の中に発見されました。それは岩手郡長より岩手県内務部長へ報告された文書に添付された写しでした。その内容に目を向けると、意外にも次のような「出品見合はせ」との記載でした。

   (別紙写)
本月十日付勧発第一六五号ヲ以テ御照会ノ日英博覧会出品ノ件ハ折角ノ御勧誘ニハ候ヘ共出品見合ハセ可申事ニ相成候間左様御了承仕成下度候慥カ其筋ニテモ此度ノ博覧会ニハ動物ニ関スル出品ハ書類統計トモ一切見合ハセニ御内定相成リタルヤニ聞及申候為念得貴意以拝復
   小岩井農場 印(赤星)
  岩手郡長長谷川四郎殿

  これで小岩井農場が日英博覧会に出品を勧誘されたが辞退(「出品見合せ」)したことが明白になったのです。では「日英博覧会へ…地質標本を出したとか」という賢治の記憶には、どんな経緯がからんでいたのでしょうか。

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