2009年 6月 19日 (金)

       

■ 太宰が友を励ます手紙5通 本県出身詩人三田循司の遺品から発見

     
  太宰が花巻の三田循司にあてたはがき  
 
太宰が花巻の三田循司にあてたはがき
 
作家の太宰治(1909|1948)が東京都三鷹市に住んでいた時代に親交のあった岩手県出身の詩人、三田循司(1917|1943)にあてた手紙5通が見つかった。盛岡市山岸6丁目の赤澤征夫さん(72)が寄託された三田の遺品の中に含まれていた。きょうは太宰の生誕100周年の桜桃忌。文豪と岩手とのかかわりを示す資料として注目される。

  三田は花巻出身の詩人で、太宰の短編「散華」の登場人物。太平洋戦争中の1943年に北方のアッツ島玉砕で戦死した。岩手中学、旧制二高を卒業して東大国文科に進み、1940年にひとりの文学青年として太宰と出会う。東大在学中は同人誌「芥」を編集し、詩人として将来を期待されながら、戦火に早世した。

  岩手高校の石桜同窓会の活動の中で三田を知った赤澤さんは、母校の先人に光を当てようと花巻市の縁故を探し、三田の妹の三田綾子さんに出会った。綾子さんは今月、赤澤さんに「太宰の手紙もある」と循司の遺稿入りの箱を託し、整理すると太宰が三田にあてたはがき5枚が含まれていた。

  書面からは「青春の病ひと思えば美しくなるぢゃないか、夜のつぎには朝が来る」「男児は生きているあひだ苦闘すべきもの」「しっかりやって下さい。はるかに武運の長久を祈る」などの文言が読みとれる。

     
  三田循司  
 
三田循司
 
  太宰は1944年の「新若人」に「散華」を発表した。作中で「けれども、私がまだ三田君のその新しい作品に接しないうちに、三田君は大学を卒業してすぐに出征してしまったのである。いま私の手許に出征後の三田君からのお便りが4通ある。もう2、3通もらったような気がするのだけれども」と、文通の中味を明かしている。

  作中で三田は「御元気ですか。遠い空から御伺いします。無事、任地に着きました。大いなる文学のために、死んで下さい。自分も死にます。この戦争のために」としたためている。太宰は三田の詩魂を刻むように、そのくだりを作中で3回繰り返している。

  「死んでください、という三田君のその一言が、私には、なんとも尊く、ありがたく、うれしくて、たまらなかったのだ。これこそは、日本一の男児でなければ言えない言葉だと思った」と、三田の覚悟に文学者としての共鳴を示している。

  赤澤さんは「三田のことを知っていた人は極めて少ないと思う。今年は太宰の100周年で特集が組まれるなどしなければ日の目を見なかった。太宰が三田と引き合わせてくれたようなもの。温故知新で古きを見詰めたいし、アッツで玉砕した三田を思うと、平和の尊さが感じられる」と感慨に浸っている。

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