2009年 6月 21日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉49 小川達雄 盛岡の地質調査7

    五、報告の終結

  この報告文書を高く認めている人は、とくに地質学関係者に多い。弘前大学教授の宮城一男氏は、全く驚くべきものとして第一に、報告書が正規の地質学の論文であることをあげ、第二に、盛岡附近の地質の分類が現代の知識をもってしても正確なものであること、第三に、その終結文の格調の高さを記している(『宮沢賢治の生涯』)。

  以下、その「終結」の先頭を上げる。

  「地質学は吾人の棲息する地球の沿革を
  追究し、現今に於ける地殻の構造を解説
  し、又地殻に起る諸般の変動に就き其原
  因結果を闡明(センメイ)にす、即ち我
  家の歴史を教へ其成立及進化を知らしむ
  るものなるを以て、苟(イヤシク)も知
  能を具へたるものに興味を与ふること多
  大なるは弁を俟(マ)たずして明なりと
  す。」

  これにほぼ共通する冒頭の文は、神保小虎博士の『日本地質学』にも認められるけれども、それに続く山野行の楽しさを述べた文は、賢治独特の詩情に満たされていたと思う。

  「閑散なるの日一鎚(ツイ、金槌)を携
  (タズサ)へて山野に散策を試みんか目
  に自然美を感受し心身爽快なるを覚ゆる
  のみならず造化の秘密を看破するを得、
  一礫(レキ、小石)一岩塊と雖(イエド)
  も深々たる意味を有するを了解し、尽き
  難きの興味を感ずるは、生等の親しく経
  験したる所とす、〜地質図を手にして長
  期の跋渉を試みんか〜進んで宇宙の真理
  を探求せんとするの勇気をして勃(ボツ)
  々たらしむ」

  賢治と行動を共にした友人たちは、交々次のように云った。

  「日曜日等には、室員の二、三と山登り
  や遠足などしたものだつた。姫神山に登
  つたり、雪のある箱ケ森、近くの山にも
  よく一緒に登つた。」(小菅健吉−農二
  の同級生、『周辺』)

  「宮沢さんが盛岡高農へ入学、当初から
  土曜日は、午後から日曜日の夕方まで泊
  りがけで、鉱物等の標本採集に盛岡附近
  に出掛けることが常であつた。秋の或る
  日曜日に宮沢さんに誘われて二・三人一
  緒に同行した。歩き乍ら色々教えられる
  事が多かつた。」(中嶋信−農一)

  ほんとうに賢治は、地質図を手にして宇宙の真理を探求する使徒であったと思う。賢治の胸の奥には、人間生活に最も重要な、地質調査への思いが渦を巻いていたのであろう。そうでなければ、わずかに高農二年の段階で、こうした報告文書が書けるわけはない。この項の最後に、その願いを記した部分を、農林業の次、一般工業の箇所について、要約を現代語で記しておく。

  「一般工業上でも諸般の施設をその地の
  地質構造によって定めることが多い。ま
  た人口の稠密、交通の繁度等、土地の繁
  栄も地質によって左右されるため、地質
  調査を行って的確なる方針を決定するこ
  とは、まことに緊急の大事である。」

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