2009年 8月 8日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉62 小川達雄 秩父路を行く・上7

    三、新続・荒川の岸辺

  さて賢治たちは寄居町を一望した後、どこに向かったのであろうか。

  じつはこの年度の見学旅行には、日記や報告書等も残されておらず、賢治が採集した七個の岩石と、その歌稿が残されているばかりである。従って、見学にふさわしい場所の地理と所要時間によって考えることになるが、するとこの日午前のあと二時間は、賢治たちが立った断崖の裏手、深川渓谷に向かった、としてよいように思う。

  その場所は、中渡しの舟から下りてすぐ、一つ坂を越えて谷間の細道を曲がって行った、その先である。そこまでは、寄居町を一望した断崖から、十分ほどで行くことが出来た。

  いまはちゃんとした橋が架かっているが、左の写真はその橋から上流の川原を写したものである。暗くて(下手で)わかりにくいけれども、川原の左側には、きれいな、それこそ清流が流れていた。

  その上は、密生した若いヒバの木群で、そういえば、このあたりは荒川の流域のうちで、最も多くの樹種を見ることができるようである。その付近の地層は、寄居では特徴的な礫岩(レキガン|微細な岩石のかけらが固まったもの。赤褐色)で、これは一度聞くと覚えてしまうが、さて橋をくぐったすぐの両側(この写真の下のほう)の崖には、溶結凝灰岩(ヨウケツギョウカイガン)が続いていた。

  これは名前だけでもむずかしく、なにかまぎらわしい。しかしこの岩石は、寄居駅から荒川にやって来て川原に入った、その地点に広がっていた。それは幅三_くらいの白い筋と、同じく小さな白い粒が浮かんだ、灰緑色の岩盤である。

  おそらく関教授の最初の説明はこの岩石のことで、生徒たちはそれを聞いて、(秩父の地質見学にやって来たな)と感じたのではなかろうか。

  あとは川原を進んで、賢治たちはいわゆる鴎穴(オウケツ)とよばれるポットホールや深淵等、古くから「四十八釜」と呼ばれた一帯を見学したらしい。そこは所要二時間ほど、次は中渡しの舟に乗って、正午頃には寄居側の川原に戻ることができる。

  この渓谷は昔、鉢形城の内堀であった。

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