2009年 8月 9日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉63 小川達雄 秩父路を行く・上8

    三、新続々・荒川の岸辺

  今回は国指定の遺跡になっている、寄居町対岸の鉢形城址について、少し記しておきたい。じつはその城址の周囲を、半日かけて歩いたことがあったからである。

  東京には盛岡中学・盛岡一高の同窓会があって、その会では、中世城郭見学の一環として、鉢形城の遺跡探訪を行うことがあった。それはもう昨年のことになってしまったが、これまでは城の内堀に当たる、深沢川の渓谷だけしか見ていなかったので、わたしはよろこんでその探訪に参加した。

  すると、正喜橋を渡った右手には、二十四万平方bに及ぶ、鉢形城一帯の大きな配置図があった。数々の曲輪(クルワ|城砦の囲い)、狭間(ハザマ)、空堀等々。さらに進むと明るい広場があり、鉢形城の博物館があった。

  その中央の部屋の大きな展示は、鉢形城址の正確な立体模型と、その各部分の解説である。鉢形城は、小田原北条氏の時代に築かれたという。

  当時の秩父地方には、上杉、武田、北条三家の勢力が入り組んでいたが、北条氏は天神山城からこの地に移って、秩父から遠く群馬、栃木方面まで勢威を張った由。

  鉢形城は、荒川と断崖という天然の要害に拠った山城であるが、全体の構造を見ると、そそり立つ断崖をかなめに、ガッチリ組まれた名城であったことがわかる。そして深沢川の渓谷は、堅牢な山城を背後から支える、まことに地味な屈曲であった。

  ふだんは人の行き来もない、それは全く裏方の存在である。しかし、それがなかったとしたら、山城の重要な支えがなくなってしまう。するとそうした渓谷の川原を、賢治たちはまじめに、調査・見学して行ったわけである。そこには、地質探査という作業の、地道なすがたが浮かんでいるように思われた。

  今回は最後に、寄居町付近の概念図をあげておきたい。ただ、正喜橋の工事認可が下りたのは、賢治がやって来た大正五年、その二月のことであった。現在は立ケ瀬断層の下のところを東武東上線(池袋|寄居)が走り、象ケ鼻の右手を八高線(八王子|寄居|高崎)が走っている。

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