2009年 8月 15日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治と盛岡高農時代〉64 小川達雄 秩父路を行く・上9

     四、秩父の空

  賢治は初めて秩父に入った九月三日、午前の地質見学を終えて、満たされた気持ちで渡し舟に乗った。その時の歌は
 
  はる〓〓と秩父のそらのしろぐもり河を
  越ゆれば円石の磧(カワラ)。
 
  豆色の水をわたせるこのふねのましろき
  そらにうかび行くかな。
 
  これは保阪嘉内宛の葉書に記された歌稿で、「はる〓〓と」はこれで三度目の繰り返しになっている。自然に口をついて出て来たのであろうが、賢治はこのように、いつもワクを越えていく、自由な思いを抱いていた。

  それは、ふるさとから秩父へ、あるいは過去から現在へ、その間をしきりに往復する思いであろうが、それは同時に、ただいまの場所から、別の空間への移動をはらんでいたようである。

  すなわち、「はる〓〓と」そらを仰いで川を越えてくると、そこはめずらしい、円石の川原であった、という。そのまるい石は最大で八十aほど、多くは五〜二十aの大きさで、川原は四百bほど続いている。

  さいごの「円石の磧」は、これはいわゆる体言止めであるが、賢治としては「円石の磧よ」という、感嘆をこめた言い切りであったろう。この川原は、昭和十年三月、埼玉県から「名勝玉淀」の指定を受けた、景勝の地である。

  賢治は「はる〓〓と」とうたって、いつの間にか、自分をきれいな川原にはこんでいた。川を越えたら、そこは別次元の地であった、というのである。あるいは、そこは浄土であった、とでも言いたかったのかもしれない。

  次の歌では、ふねは「ましろきそらにうかび行く」という。これは前の「はる〓〓と」という、いわば上昇気流の渦に、そのまま乗ったような思いであるが、これは明瞭に、〔舟は別の天地に浮かんで行く〕というのであった。

  賢治の発想の特徴には、なによりもその〔うごき〕にある。自分がうごくばかりでなく、乗ったそのふね自体がうごく。これは大作・「銀河鉄道の夜」と発想の根っこが同じで、ただいま、賢治は短歌のかたちで表現していたけれども、賢治にはもともと、そうしたワクを越えた流動性があった、と見ることができる。

  川の水に「豆色」といったのは、これは親友の高橋秀松が、大正五年夏の思い出として、姫神山から戻る山里への小道で、

  「賢さんから生の枝豆を喰うことを学ん
  だのも此時である」(川原『周辺』)
  こう記したことと関係があった。

  枝豆の青みがかったその色は、秩父に出かける、つい先々月に賢治が見た色である。ふねが空に浮かぶ、といっても、その場面には、盛岡付近の小道の、枝豆の色が漂っていた。そこがなんともおもしろい。

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