2009年 8月 22日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉66 小川達雄 秩父路を行く・上11

    五、象ケ鼻

  賢治たちは九月三日の午後、いまの玉淀川原から、次は荒川上流の波久礼(ハクレ)駅を目指した。

  ここのところ、神保小虎博士の秩父巡検案内では、川原をそのまま、輝岩の露頭を見つつ進んでいる。そして賢治たちが渡った中渡しの上流の、上渡しの地点付近からはこう記していた。

  「コヽヨリ岸ヲ上リテ沖積層上を北行ス
  ルコト大凡(オオヨソ)五丁(約五百b)
  ニテ秩父街道ニ出ヅレバ荒川ハ西ニ折レ
  河水ノ流レ來リテ衝(ツ)キ当ル処深ク
  弯入(ワンニュウ)シ一部河中ニ突出シ
  テ絶壁ヲナス其形ニヨリ名ケテ象ケ鼻ト
  云フ又輝石岩ヨリ成ル」

  これは品格の高い、土地への賛嘆のこもった文章であるが、その「岸ヲ上リテ」の「岸」から約四百b上流のかなたには、「象ケ鼻」の突端が見えていた。その突端を望む地点には、一bほどの薄青い結晶片岩が多くそばだち、その季節には傍らに、ススキや黄色の花が咲いている。

  じつは玉淀川原から賢治たちは荒川沿いの道を、渓谷を見下ろしつつ歩いたか、あるいは神保博士のように川原を行ったか、どちらとも決めかねていたけれども、空をそちこち指して傾く、生きたような結晶片岩の群れを目にして、川原のほう、と思った。結晶片岩とは、いちど出来上がった岩石が、地下の深層部で高温・高気圧を受けてあらたに生まれた変成岩である。

  象ケ鼻は、三百坪くらいの公園の裏側にあった。「明治三十七、八年戦役記念碑」の脇の傾斜を下りると、押し寄せる川波を支えて、ごつごつした岩塊がそびえていた。左には大正十五年の盛岡高農見学隊の写真を掲げたが、賢治たちもこのように並んだのであろう。

  賢治たちの翌年、保阪嘉内はここで、
   川端にづらりと/竝(ナ)らぶ十三人
   /博士は石をわらず、/すませり、
   …而(シカ)して自(ミヅカ)ら秩父
   案内人と称す…(「秩父始原層其他」)

  こんな歌をつくっていた。「博士」とは関教授のことで、保阪たちもずらりと並んでいたのである。

  象ケ鼻の岩塊は輝石岩なので、賢治の採集した標本「輝岩 大古界ミカブ層 寄居」はここからのもの、と井上克弘氏(「石ころ賢さん」)、田口聡史氏(埼玉県立自然博物館)はいう。わたしも、手頃な岩片を一個ひろった。

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