2009年 8月 23日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉67 小川達雄 秩父路を行く・上12

    六、波久礼(ハグレ)

  象ケ鼻から波久礼駅まで、これは街道を三`ほど、賢治たちは右側の山手と荒川のあいだをひたすら歩く。波久礼駅発下りの汽車は午後四時二九分、駅付近に着いてから、一時間半ほどの時間があった。

  駅舎は荒川岸に沿った街道のすぐ上に見えている。賢治たちは川原に下りて、そこでは秩父地方に特徴的な、結晶片岩の類を採集した。

  現在、賢治が記した「波久礼」の岩石標本は二個残されている。緑泥片岩(リョクデイヘンガン)と滑石(カッセキ)片岩がそれで、産地は、波久礼駅北方の荒川左岸であるという。

  このことは、県立「自然の博物館」による企画展示、「宮沢賢治と地質学」(平成十九年)のおかげで知った。その展示には、賢治の採集した標本六個(地名が不明の一個を除く)の産地が、なんとみな、写真で示されていたのには驚く。

  その展示には二度出掛け、展示責任者の田口聡史氏にたずねて、それら標本一個ずつの現地、現物を、ようやくたしかめることが出来た。だいたい、標本のラベルには「緑泥片岩 波久礼」と記されていても、以前わたしが訪れた時には、ダムによって荒川の水面は岸まで押し寄せていて、途方に暮れるばかりであった。やはり教えられなくては、迷うことのほうが多い。

  さて同級生の出村要三郎は、秩父での賢治について、こう記していた。

  「〜埼玉県の秩父へ旅行したとき、宮沢
  君はあの宏大な大古層・中古層など大自
  然の生(成)因について感動されたこと
  を思い出される。」(川原『周辺』)
  この「大古層」とは、賢治の標本に「輝岩

  大古界ミカブ層」と記された「大古界」のことで、その輝岩は賢治たちが寄居町を一望した断崖そのものであり、それは象ケ鼻の岸壁でも、川原伝いにやってくるその途中でも、ふんだんに目にすることができた。また「中古層」とは、波久礼の結晶片岩類が、もとの岩石から新しい岩石に生まれ変わった、中古代(約一億数千万年前)の地層をいう。

  いずれ出村のいう「大古層」は輝岩、「中古層」は波久礼の緑泥片岩や滑石片岩を指していた。それも「大自然の生(成)因について感動された」というから、それはたとえば緑泥片岩の場合、細長い緑色の緑泥石や白い石英、ピカピカ光る絹雲母などの鉱物が、いっせいに同じ方向に並んでいるのを見て、地中深くの岩石誕生のドラマに感じ入った、ということであろう。

  賢治はそんな時、ホーホー、と叫び声をあげたに違いない。この日宿に向かう道では、みんな大声で歌をうたったというから、秩父旅行はほんとうに楽しかったらしい。

  川原の採集が終わって、賢治たちは予定どおり乗車。汽車は九`余を走って午後五時過ぎ、国神駅(いまの上長瀞駅)に到着。日暮れまでにはまだ余裕があり、賢治たちは今日の最後の見学地に向かった。

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