2009年 8月 30日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉69 小川達雄 秩父路を行く・上14

    七、続・虎岩

  県立「自然の博物館」の展示「宮沢賢治と地質学」で、わたしがとくに注目した写真があった。

  それはこの地を訪れた宮沢清六氏の写真である。氏は虎岩の縞模様に上体をあずけて、両手を大きく開いていた。それは、

  (兄・賢治がうたった縞模様に、いま、
  じかにふれています)
  とでもいうようなスナップであった。

  正直にいうと、わたしは縞模様がすばらしい、と、すぐに感じたのではない。くり返して見ているうちに、その褐色の独特な縞模様に惹かれて来たものの、川原を一見した時には、水辺に近く、あるいは空を仰ぎ、地にうつむいているような、かすかに青い、一bほどの緑泥片岩の群れに目が行った。

  従って、賢治の足跡を喜んだ清六氏には
  (さすがに兄弟となれば、やはり違う)
  と思ったのである。

  ほんとうに、〔わかる〕というのは、こうした呼吸を指すのであろう。賢治がその縞模様に、「粋なもやうの博多帯」と云ったら、スッと、博多帯のさまを思い浮かべるということ(そこには、賢治の生家が古着を扱っていたこともあったろうが)。

  実際には、「博多帯」の模様とはどんなであったか、事典の類を調べるにしても、そのイメージの間髪をいれぬすばやい開花のさまには、賢治の本質がよく出ていたと思う。そこには、〔見る〕〔聞く〕〔思う〕等をしきりに用いる、短歌の形式とか常識とかには全くとらわれない、もともと自由な発想があった。

  さて、その大岩の川原から出発したのは、午後六時過ぎの頃であったろうか。この九月三日の宿は、川原からは徒歩二十分ほどの梅乃屋である。
 
  山かひの町の土蔵のうすうすと夕もやに
  暮れわれら歌へり。
 
  この歌にあるように、家々は街道沿いに並んで、五百bほどの宝登山に連なる丘陵が、町の背後に迫っていた。その時の「土蔵」は、いま見ることができない。

  「夕もやに暮れ」とあるように、それはみんなに、四日の晴れを予測させた。明日の秩父の見学旅行は、化石採集と聞いたが、それはいったい、どんなであろう|。

  今日の地質調査の楽しさから、高農生たちは大声で歌をうたった。賢治は後に、稗貫農学校の修学旅行の時、札幌の大通りを、生徒たちに合唱させて行進しているが、そのことからすれば、秩父での歌いながらの行進は、おそらく賢治が音頭をとったものか。先にも記したが、波久礼での採集の感動からしても、賢治の気持ちは大いに高揚されていたのである。

  梅乃屋は二階建ての大きな旅館で、四日の旅を行く街道に、じかに沿って窓が並んでいた。明日は箱型馬車に分乗して、小鹿野町まで行く予定である。 |この項、了。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします