2009年 10月 3日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉128 岡澤敏男 モンタージュされた詩篇

 ■モンタージュされた詩篇

  「小岩井農場」の詩を書いた当日(大正11年5月21日)の天候が「曇り」であったことは新聞や農場資料により明らかだが「晴れのち雨」として作品に描いたのは、「雨」がどうしてもモチーフに必要な虚構だったからとみられる。

  たしかに虚構表現は文学ばかりでなく絵画や映画にもよく用いられるモンタージュ技法で、賢治は「雨」(天候)ばかりでなく農作業もまたモンタージュしているのです。

  (燕麦播ぎすか)
  (あんいま向でやつてら)

  という賢治と農夫との会話で分かるとおり、パート七における農作業は燕麦の播種をしている情景ですが、この日の耕耘部日誌を見ると実際に行われたのは〈玉蜀黍の播種〉であって作業内容が違っているのです。

  耕耘部主任だった鈴木彌助著『小岩井の飼料作物』に燕麦は4月下旬に播種を開始し5月初めに終了、ついで玉蜀黍(とうもろこし)が5月初旬から播種すると記述されているように5月21日は燕麦の播種ではなかったはずです。

  おそらく賢治は2週間前の5月7日にも来場したのでしょう。この日は長者舘二号で燕麦が播種されておりましたし、しかも天候は「曇午後雨」と本部日誌に記載されているのでパート七の状況とぴったり合致します。

  同じ長者舘二号畑に5月7日には燕麦を、5月21には玉蜀黍を播種することに疑念をもつのでしょうが、この事情を詳しく述べれば次の通りです。

  広大な37町歩の長者舘二号の畑は農道によって南北に2分され、その北側が〈長者舘二号の一〉南側が〈長者舘二号の二〉となっていたのです。すなわち5月7日に実施した燕麦播種は、南側の〈長者舘二号の二〉の方で5月21日に実施した玉蜀黍の播種は北側の〈長者舘二号の一〉だったということです。ちなみに降雨にあった相の沢林班に隣接する北側の畑(長者舘二号の一)がパート七の畑でした。

  パート七の農作業のパロディー化は、北側の長者舘二号の一の農作業(玉蜀黍播種)を南側の長者舘二号の二の農作業(燕麦播種)によってすり替えられたものだったと理解されます。

  また玉蜀黍の播種を燕麦にすりかえたのは燕麦の種子の色に意味があったらしく、文中に「白い種子は燕麦(オート)なのだ」と「白」を強調していることでもわかります。「白」は「黒」(強迫観念)に対立する色で、強迫観念からの転生を隠喩する色だったとみられます。

  もう一つ、燕麦の播種では必要としない〈威し銃〉の男を出場させたパロディーについて述べます。文中に「くろい外套の男が/雨雲に銃を構へて」とあるように、強迫観念の残滓として「黒」を必要としたからなのでしょう。

  〈威し銃〉とは耕耘部の作業割に玉蜀黍の播種には必ず配置される項目で、播かれた種子を鳥の食害から防ぐためのものでした。しかし燕麦の場合には鳥の食害がないので〈威し銃〉の配置を必要としなかったわけですが、賢治は燕麦の播種に〈威し銃〉を配置させ「黒」を強調したのです。

  このように長篇詩「小岩井農場」はモンタージュされた詩篇という気がしてくるし、各パートに展開する多彩な形象や小鳥の鳴き声にも、あるいはモンタージュの技法が交錯しているのかも知れません。

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