2009年 10月 3日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉78 小川達雄 秩父路を行く・下9

    六、続・山中地溝帯

  山中地溝帯、というと、なにやらむずかしそうであるが、そんなことはない。左のスケッチを見て頂くと、これは山中地溝帯の中途、半平(ハンダイラ)から西の両神山を望んだもので、賢治たちはこうした渓谷の真っ只中に立った、ということである。

  スケッチの左側から流れてくるのは川原沢川(赤平川の上流)で、簡素な橋を渡るのはなにかを背負った人、その行く手の上には六軒の家々が並んでいた。みな板葺きらしいが、その右側には、群馬県境・志賀坂峠までの街道が続いていた。

  その街道から、川原沢川は三十bほど下を流れていたが、これは山中地溝帯が始まる、犬木(イヌキ)でも同様であった。その地点には昔から「犬木の不整合」と呼ばれる有名な露頭があったから、今日の最初の見学地として、賢治たちはまず、その川岸に降りていったに違いない。

  いま街道の左側には、「犬木の不整合」と記した白い標柱が立ち、そこから川原へ、手すりのついた段々の道が伸びている。その奥の断崖には、中生代白亜紀の泥岩・砂岩層の上に、新生代第三紀層(約千五百万年前)の砂礫層が、大きくうねっていた。

  それは秩父盆地を代表する第三紀層であって、ここから山中地溝帯の基部・白亜紀の地層が、地上に現れてくる。川底の黒い岩盤に、自然史博物館の田口聡史氏は、

  「あれが白亜紀の頁岩です」
  と云って下さった。

  その時、たくさんの中学生たちがやって来たが、それは二つの異なる地層が重なった地殻変動の証拠、いわゆる「不整合」の見学隊である。学芸大付属校と聞いたが、ごく普通の生徒さんたちで、それがひどく好ましかった。

  さて明治二十六年、山中地溝帯を観察した横山博士は、半平の次、間明平(マミョウダイラ)から引
き返していた。わたしはその奥、日影の地点まで行ったが、それは賢治が集めた岩石標本のうち、産地不明なのは「日影森 蛇灰石」、それを〔日影〕の川原で求めたかったのである。

  田口氏は、地質図からそれは無理で、もしあるとしたら稀なこと、と云っていたが、結局、そのとおりであった。しかし、水も少ない川原にやって来て、わたしは(とにかく調べるだけは調べた)と、少しは満足していたのであった。

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