2009年 10月 4日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉79 小川達雄 秩父路を行く・下10

    七、荒川の碧

  賢治は九月四日の午後、荒川の流れを目にして、こううたった。
 
  かすみたる眼(マナコ)あぐれば碧々(
  アオアオ)と流れ来れるまひるの峡流。
 
  荒川の碧きはいとゞほこらしくかすみた
  る目にうつりたるかな。
 
  これは三峰神社を目指して、荒川の岸べを行った時の歌である。現在、荒川は街道のはるか下を流れているけれども、当時は山道まであと三十分ほどのところから、道は川沿いに続いていた。

  その時、賢治たちは馬車に揺られて、うとうとしていたという。「かすみたる眼」がそれであるが、碧い流れは正面から滔々(とうとう)と押し寄せていた。「まひる」とは正午を指すのではなく、「太陽系はまひるなり」の例があるように、それは〔清浄な光の中の〕ということであったろう。

  じつはこの二首、保阪への葉書の先頭に記されていた。この次が、先に紹介した「朝の雲」「薄明の空」の歌である。

  賢治は、なによりもまず、荒川の〔碧〕にふれた「まひる」の思いを、保阪に伝えたかったらしい。

  それは荒川の碧い水が「いとゞほこらしく」流れている、ということで、これは仮眠のさなかにハッと感じた、荒川への真っ正直な、賛嘆であった。限りなく、あとからあとからあふれてくる、碧いいのちの発見。

  賢治は天然自然の存在とすぐに同化して、その声をじかに語ることがあった。

  「〜五輪峠では、蛇紋岩脈にハンマーを
  打ち入れ転び散る破片を拾い乍(ナガ)
  ら、ホー、ホー二十万年もの間陽の目を
  見ずに居たので、みな驚いていると叫ん
  でいた。」(高橋秀松、川原『周辺』)

  これは高農三年の夏、江刺郡地質調査に赴いた時の賢治の声であるが、ここのところ、「陽の目を見ずに居た」岩脈の叫び、というのは、とりもなおさず、なまなましい蛇紋岩の膚(はだ)に接した賢治の驚きにほかならない。

  この〔荒川の碧のほこらしさ〕というのは、いわばこの見学旅行の露頭のようなもので、そのバックには、秩父で知った地質や地勢についての、深い、大きな満足があったと思われる。

  荒川にやってくるその前には、小鹿野町から群馬県境に及ぶ、広大な山中地溝帯を一望した。賢治はその時、地勢の観察について、風穴が開いたというか、うなずくところがあった。また、虎岩などの結晶片岩やさまざまな化石を見て、はるかな、数億年以前からの地殻変動をじかに知ることがあった。

  こうした新しい知見の数々は、旅を行く賢治の心を奮い立たせていたはずである。そして次には、渓流に架かった白い橋を目にして、思わず涙を流すことがあった。

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