2009年 10月 10日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉129 岡澤敏男 保阪嘉内と堀籠文之進

 ■保阪嘉内と堀籠文之進

  長篇詩「小岩井農場」のモチーフは前述したように保阪嘉内との別れにあったことはほぼ間違いないことと思われます。この詩篇の下書稿(第五綴)に登場する「堀籠さん」との交友のもつれ、その切ない告白に嘉内との別れが原罪となって重ねられていると思われるのです。

  堀籠さんは温和しい人なんだ
  あのまっすぐないゝ魂を
  おれは始終おどしてばかり居る
  烈しい白びかりのやうなものを
  どしゃどしゃ投げつけてばかり居る
 
  「堀籠さん」というのは花巻(稗貫)農学校で賢治と同僚だった堀籠文之進(盛岡高等農林農学科・大正10年卒)のことで、高農では賢治の3年後輩だったが農学校には大正10年4月に就任しているから、同年12月に就任した賢治には堀籠は教師として8カ月先輩にあたっていたわけです。

  堀籠と賢治とは同窓でもあり公私ともに親しい仲だったが、どうしても融和できない問題があったらしい。それは賢治が堀籠にしつこく法華経への入信を迫ったことでした。

  「宗教的な道を、いっしょに行けないのは、宮沢さんの信仰の深さや気持ちが、あんまりへだたりすぎていて、むしろ恐ろしかったのです。その結果、宮沢さんと気持ちの上でちょっと離れたときもあった」(森荘已池著『宮沢賢治の肖像』)と堀籠は語っている。

  「こっちにそんな考はない」といったところで、堀籠には折伏する賢治はまるでデーモン(鬼神)に変化して恐怖感を抱かせたのでしょう。賢治も折伏する自身を「烈しい白びかり」と比喩(ゆ)しているのです。その結果、「宮沢さんと気持ちの上で離れたときもあった」と述べているのです。

  この述懐から連想されてくるのは賢治が嘉内と決別に至った大正10年7月18日のできごとです。

  在京中の賢治は上野図書館の3階で嘉内と落ち合い宗教論を交わしたが、嘉内は賢治の折伏に応じなかったらしい。おそらく賢治は「激しい白びかり」のように入信を迫ったが嘉内に拒絶されたのです。嘉内はほんとうの意味で唯一の心の友だったから目の前が真っ暗になったのでしょう。この日の衝撃を「東京ノート」(大正10年1月〜8月使用)の49n〜50nに11行の詩章で綴っています。

  われはダルゲを名乗れるものと
  つめたく最后のわかれをかはし
  白き砂をはるかにはるかにたどれるなり
    (3行略)
  そのとき瓦斯のマントルはやぶれ居て
  焔は葱の華なせるに
  見つや網膜半ばら奪ひとられて
  その床は黒く錯乱せりき
   (白き砂をはるかにはるかにたどれるなり)
 
  ダルゲとは嘉内のことで、「瓦斯のマントルのやぶれ」とは「烈しい白びかり」する折伏の破綻を意味し嘉内との「最后のわかれ」を賢治は意識したのです。第五綴で、賢治がしきりに堀籠との交友のもつれに悔やむのは、1年前に嘉内と別れた悲哀が無意識のうちに投影していたとみられます。

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