2009年 10月 11日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉81 小川達雄 秩父路を行く・下12

    九、三峰神社

  この日、賢治たちが一泊した三峰神社は標高千百bの山頂にあり、関東第一の聞こえ高い霊場であった。

  大正十五年にやって来た農芸化学科の後輩・小池清は、登龍橋を渡った後をこう記している。

  「それから52町(約五・七`)の山道を
  いつも爪先登りに、呼吸と足並とを揃え
  て登って行く。リックサックは日を経る
  に従い内容を増すので重くなるばかり、
  とうとう散々な思いをしながら三峰山の
  頂上へ着く。社務所へ着いた時には、更
  に其の予想外に大きな建築に驚かされ
  た。
  更け行く秩父山中の城郭の様な一軒屋に
  自分等一行の騒ぎの声の静まったのは丁
  度10時半頃でもあったろう。」(『農芸
  化学科の歩み』大矢教授退官記念)

  後輩達はにぎやかだったらしいが、賢治は次のようにうたっていた。
 
  大神にぬかづきまつる山上の星のひかり
  のたゞならなくに。
 
  急な山道を登り続けて、さぞかし疲れたであろうに、賢治はつつましく参拝していた。「ぬかづきまつる」と、すらりと云うが、心からでなくては、なかなかこうはいかない。「山上」とは、賢治の場合、崇められるべき場所と解してよいが、それは「星のひかり」に続いて、いっそう荘厳の趣を加えていた。

  この二ケ月前にやって来た江森泰吉は、
  「御境内の結構を巡拝したる後は、社務
  所を訪れて、今宵の宿りを請ふのが順序
  である。」(『三峰大観』)

  こう記したが、賢治たちはそのとおり、まず巡拝をした模様である。

  宿泊料は客の選ぶに任せ、社務所には、饗応、炊事、料理、焚き出し、豆腐、配膳、給仕等々七十四名がいたという。

  この日の社務所日誌には、

  「盛岡高等農林学校教授関豊太郎同神野
  幾馬 生徒二十三名登峰」

  と記されていたが、これは享保五年(一七二〇)このかた、役僧によって「日鑑」と呼ばれる日誌が書き継がれて来たことによる。

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