2009年 10月 17日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉82 小川達雄 秩父路を行く・下13

    十、橋立鍾乳洞

  三峰神社の早朝は、夏でも肌寒い。朝食は万年汁と称するみそ汁、皿には岩茸、キュウリの三杯酢、小皿に瓜の奈良漬等。

  この日、九月六日の行程は大宮町(現在の秩父市)までのおよそ二十四`で、この日も馬車に揺られつつ進み、三箇所ほどの見学をしたと思われる。

  その一つ、登龍橋から約四`の猪鼻集落から始まる高い崖には、秩父中・古生層の砂岩層が、にわかに第三紀層の礫岩層に変化する、不整合の箇所があった。これは海底に堆積した地盤が地殻変動のために上昇、沈下し、その上に、約二億年を隔てた新しい礫岩層が堆積したことを物語る。デコボコしたその接合面を目にして、賢治は驚きの声をあげたのではなかろうか。

  二つめは、大宮にあと四`余の荒川橋附近で、ここには現在オートキャンプ場のある、見晴らしのよい川原があった。左岸には高さ約五十bの崖が百bも続き、流れには砂岩の大露頭が現れていた。ここでは砂岩層と礫岩層、それから泥岩層がくり返される互層を、しっかり観察したか。

  そして三つめは、橋立寺の鍾乳洞であるが、ここには翌年、関教授の引率で保阪嘉内たちがやって来たから、賢治たちもきっと見学したと思われる。

  左には大正二年『秩父大観』のスケッチをあげたが、入り口からは体を斜めにしてようやく入り、洞内経路約二百五十bの間に梯子は五ケ所、至る処に仏像を模した石塊があった。この狭い石灰岩の洞窟に、賢治はどんな感想を抱いたのであろう?

  賢治たちはそのあと、秩父最後の夜を、横山博士が「市内第一等の旅館なり」(明治二十五年「地学雑誌」)と褒めた、角屋に宿泊した。

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