2009年 10月 20日 (火)

       

■ 〈夜空に夢見る星めぐり〉241 八木淳一郎 望遠鏡の歩み(その4)

 このへんでわが国の天体望遠鏡製作の歴史をひもといてみましょう。

  わが国の望遠鏡製作の第1号と呼べるものは、反射式では、一貫斎 國友藤兵衛(くにともとうべい 1778〜1840)という人の作った青銅を用いた口径60_のグレゴリー式反射望遠鏡、屈折式は和泉貝塚の人、岩橋善兵衛(いわはしぜんべい 1756〜1811)の望遠鏡です。

  近江の国、國友藤兵衛の家は代々幕府御用の鉄砲鍛冶であり、藤兵衛は17歳の若さで家業を継ぎました。

  オランダ製の空気銃を見た経験を生かし、優れた銃を作って名声を博しました。

  1832年、54歳の時に江戸でオランダ製の望遠鏡を見た藤兵衛はこれに魅了され、自ら優れた望遠鏡を作ったのでした。しかもこの望遠鏡を使って太陽黒点をはじめ、さまざまな天体を観測し記録を残しています。

  ただ、残念なことに望遠鏡製作の後継者はなく、藤兵衛一代で終わりました。

  一方、岩橋善兵衛は1793年にわが国で初めてレンズを使った屈折望遠鏡を製作し、その優れた性能に当時の人々が感嘆したことがさまざまな記録や随筆に記されています。

  善兵衛はまた、かの伊能忠敬のためにも製作し、日本全土の測量におおいに貢献したのでした。その後明治に至るまで、五代にわたって望遠鏡を製作したと言われます。

  さて、高知県の人で山崎正光(やまざきまさみつ 1886〜1959)という人がいます。彼は旧制中学を出るとすぐ単身渡米しました。

  緑あって、アメリカの大天文台の一つであるリック天文台に観測助手として雇われました。

  独学で天文学を学び、さらに苦学してカリフォルニア大学を卒業しましたが、その傍ら反射望遠鏡のミラーを自作し、これを使って変光星の観測を行いました。帰国後は大正13年から京都大学の講師や水沢緯度観測所の技師を昭和17年まで務めました。

  何よりも、帰国後間もなくから日本天文学会の会誌や一般向けの科学雑誌、成書などを通して、精力的に反射鏡の研磨法というものをわが国の人々に初めて伝えたのでした。

  このことによって反射鏡やレンズの製作を志す者が徐々に現れるようになり、中でも京都大学助手の中村要(なかむらかなめ 1904〜1932)は大学の研究用のみならず、全国の天文愛好家のために数百ものレンズや鏡面を製作し、天文の普及に貢献したのでした。

  惜しくも若くして病死したのですが、中村の意思はさらに次なる人々へと確実に受け継がれていくことになります。
(盛岡天文同好会会員)

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