2009年 12月 1日 (火)

       

■ 〈保阪嘉内の短歌〉90 望月善次 ばかものの、帝釈天は

 ばかものの、 帝釈天は 天を指す
  この石筍の きげんとりかも
 
  〔現代語訳〕(その実は、多くの石筍の一つなのですが)馬鹿者の帝釈天だと言ってよい、この石筍(せきじゅん)は天を指さしています。その様子が私には、廻りの石筍に対する「ご機嫌取り」のように見えるのです。

  〔評釈〕「寂れたる空」十首の二番目の作品で、小題「(石灰洞)三首」の二番目の作品ともなる。前回も指摘したが、おそらくは、鍾乳洞における石筍の一つに目をとめたところからの作品。多くの石筍があるのだが、その中の一つが、帝釈天のように感じられる。その様子は、天を指さしているように見えるのだが、話者には、その様子がまるで、廻(まわ)りの石筍たち(もちろん、石筍は無生物なのだから、客観的には「石筍等」になるのだろうが、ここでは、石筍への思い入れが激しく、擬人化しているので「石筍たち」がふさわしいであろう)への「ご機嫌取り」のように見えるのだと言う。「石筍」を擬人化して、自身の思い入れを托そうとするところが既に嘉内的であるのだが、ここでは「石筍の きげんとりかも」と一層思い入れを強くさせている。こうした思い入れの強さが多くの読者に受け入れられるところとなるかは、当然のこととして、評価や議論の分かれるところとなろう。
(盛岡大学学長)

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