2009年 12月 5日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉96 小川達雄 秋田街道を行く1

    一、文芸誌「アザリア」

  今回はまず、左に掲げた一枚の写真を見ていただきたい。これは大正六年の六月、賢治たちが文芸雑誌を出す相談のために集まった、材木町・鎌田屋のいまの写真である。

  その鎌田屋は茅町五二番地にあったが、戦後の町名地番変更によって材木町八ノ二七番地となり、改築されて石川アパートになったという。これは亀井茂氏『早池峯』8号によったが、こうした大きさの下宿屋に、昔、十人ほどの高農生たちが集まったのであった。

  その家は、夕顔瀬橋まで七十bほどの駐車場の奥に、ひっそりと建っている。現在の屋根は明るい赤、壁はクリーム色になっているけれども、近くの主婦の方によれば、以前は黒いトタン屋根の二階建てであったという。

  わたしの古い盛岡の記憶からすると、その家のようすがすぐに浮かんでくるが、いまから九十年以上の昔に、高農の学生たちがそこで熱心に文学談を交わしていたとは、およそ現実味のない話のように思えてならなかった。材木町は両側にきれいな歩道が出来、戦前とはすっかりちがった明るい町並みになり、町一帯の家々もほとんど新しくなったからである。

  しかし、そこがまったくにぎやかになった場所であるだけに、昔むかしの学生たちのことがなつかしい。若い仲間たちが、心置きなく語り合う、それだけを楽しみにして、その場所に何度も集まっていたことが、じつに得難い、貴重なことに思われてならない。

  文芸誌『アザリア』創刊号の合評会は、七月七日、栗の花がまっ白く咲いた日に、夜おそくまで行われたが、その後、秋田街道を約二十`余り、雫石の春木場まで歩き通した四人の仲間がいた。賢治の親友、保阪嘉内は、その歌稿ノートにこう記している。

  「大正六年七月八日前零時十五分より
  同后二時十分までの間 同行者三人  小菅健吉 宮沢賢治 河本義行」
  深夜に歩きだした四人は、参会者の中でも特に高揚された気分になっていたらしい。

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