2009年 12月 6日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉97 小川達雄 秋田街道を行く2

    二、岩手山神社

  文芸誌『アザリア』の合評会のあと、賢治たちは町に出てまず盛岡公園の下の道まで行き、黒々と流れ去る中津川に見入ったりした。その夜の具体的な行く先は、あるいは川のほとりの相談で固まったのかもしれない。

  その秋田街道行きをメモした保阪嘉内の歌稿、「我は独り」によれば、その夜のことはこう記されている。

  若者のおろかさも/いまは高じ果て/こ
  の夜の道を歩まんと云ふ
  合歓の葉の/パッと合ふごとし/友の心
  /全く旅を供(ママ)に思へり
  盛岡の空は/まったく/しめりたり、公
  園の/電燈(注、アークライト)も、こ
  れもしめりて、
  中津川/まっくろの水/は流れ去る、/
  まっくら闇の/夏の夜ふけに、
  夏の夜の祭りの/あとの/街の途(ミチ)
  は/あまり、いたまし、しっとりと濡れ
  て           (一部省略)

  公園のアークライトは、賢治の最も好きな景物であったから、四人はその本丸から降りそそぐ光を、しばらく仰いでいたのであろう。

  保阪は、中津川に流れる「まっくろの水」に注目したが、低気圧のため、四日からは豪雨が降り続いて、北上川の増水は五日、七尺に達していた。また小菅健吉は、この時の思いであろう、「中津河畔後れ月夜の鐘」と題する一文を記していた。

  「懐の時計出して見るに桜山の鐘は正に
  時刻鐘の音まつこと少間、月影を流るゝ
  波に散らして、何かゝはりもない様に水
  の辺(アタ)り、露ふかき草ふみつゝか
  はずの音の中に立ちけるに、第一鐘は待
  ちし第一鐘は暗を破りてひゞきぬ、」(
  『アザリア』第二号)

  ここからは、滔々(とうとう)と流れ去る中津川の川面に、ひたすら見入っていた若者の姿が浮かんでくる。

  いまは「桜山の鐘」といっても、それは天満宮北側の妙泉寺の鐘、とは、なかなかわかりにくいはずであるが、遠い栃木からやって来た小菅なのに、それがちゃんとわかっていた。そしてその鐘の音を、心の奥深くに聴き止めていた。

  思うに、中津川の暗い波を見ていた若者たちには、こうした天地のひめやかなたたずまいに、強く惹かれる気持ちがあったのであろう。それがあったからこそ、実際的な理科方面一点張りの学校の中から、文芸誌の発行などを始めていた。また、そうした気持ちがなかったとしたら、いくら合評会のたかぶりがあったにしても、二十`余も離れた雫石の春木場まで、深夜に歩き通すことなど、するわけがない。

  この夜、材木町の通りは、岩手山神社の祭礼で賑わっていた。岩手公園から再び戻って来た四人は、所々に掛けられた潜り行灯の武者絵|「宇治川の先陣」「夏期海岸の図」「賎ケ嶽合戦」|を目にしながら、夕顔瀬橋に向かったに違いない。

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