2010年 2月 20日 (土)

       

■ 〈早池峰の12カ月〉33 丸山暁 忘れ物係

     
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  雪に覆われていたわが家の祠(ほこら)もやっと姿を現わした。本欄ご愛読の方々はこの情景を見て「あの紅葉散る祠だ」とご記憶の方もあろうが、思い出せないからと考え込む必要はありません。人間の脳は、必要のないものは、忘れていくようにできているものです。

  四、五十歳を超えれば、最近忘れっぽい、ボケてきたのではないかと多くの方々が心配になってくるようだが、それは年のせいばかりではなく、少々のことは気にすることはない。

  僕などは、随分若い小学2年生の時、「忘れ物係」に任命されてしまった。宿題が出ても期日に持っていかない。何か学校にもって来いと指示されても忘れてしまう。先生が「どうして忘れる」と問い詰めると「あしたもってくるけえ、ええがの(いいだろう)」と、そらっとぼけていたので、「忘れ物係」に任命され、自らをチェックするはめになった。

  編んでもらったばかりのセーター、買ってもらったばっかりのグローブを遊びに夢中になって、たてつづけに忘れなくしてしまい、それ以来忘れん坊の烙(らく)印を押されてしまった。大切なものをなくすと、物はなくなっても、なくしてしまった記憶は一生消えない。

  物忘れ、記憶というものは、身体的には個人的なことであるが、国家や民族など社会的、集団的な、物忘れ、記憶というものもあるのではないか。

  戦後65年経ち、戦後は終わった、いつまでもアジアへの侵略戦争、被爆国と、自虐史観はやめにしようという声も根強くある。しかし、2,000万人のアジアの民、300万人の日本人の命を奪った大日本帝国の戦争は忘れてはならない。また、アウシュビッツ、アメリカの原爆投下、ベトナム戦争、アメリカのイラク侵略、アフガニスタン戦争も検証し、記憶にとどめ続けなければならない。世界的にはそれを歴史というのかもしれない。

  「忘れ物係」に任命され、忘れん坊の烙印を押され続けた僕だが、それがわが諌(いまし)めとなってか、その後いわれるほどの大事な忘れ物はしていない。最近では、車のライトを消し忘れバッテリーがあがったのが2回、電気の消し忘れを注意されるぐらいである。

  世間には、あれ忘れてるこれ忘れてたと大した事でなくても、忘れた相手をやたら責めたり指摘する人もあるが、忘れてしまったものは仕方がない。忘れたものは誰かがそっと補えば、事足りることがけっこう多いものである。その方がみんな温かくなれる。

  最近、脳トレだの記憶術が、やたらはやっているが、人間は過剰な情報は選んで捨て、辛いことなどは、忘れるから生きていけるということも覚えておいてほしいものである。

  (丸山暁建築・空間工房、大迫・外川目在住)

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