2010年 3月 17日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉168 伊藤幸子 「盲亀浮木」

 勾玉の穴の不思議に亀鳴 けり     青木規子
 
  世の中には不思議がいっぱい。しかし川柳や短歌の「軽み」の分野とちがい、俳句でこのように真正面から詠みこむのは珍しいのではないか。と、思っていたら「東京に井戸ある不思議秋彼岸」との能村研三さんの句もあった。なんで秋彼岸か、私にはそれが不思議なのだけれど。

  ところでつい先日、目のさめるような思いにとらわれた。外出から戻りなにげなくテレビをつけると「水戸黄門」をやっていた。ふだん見ることがなく、チャンネルを替えようと思ったそのとき、白装束鉢巻姿の女人が叫んだのだ。「もうきのふぼく うどんげの 花咲く今宵があだうちの 好機と心得覚悟せよ」とのせりふ。四国路は道後の湯煙をはすに見てなんとも勇ましい仇討ちの場面である。

  びっくりしたのなんのって、エッ、「もうきふぼく」ってこういう口上でも使うものかと、くらくらしながら仏教の本をとりだした。酒井大岳先生の解説による「盲亀浮木」のお話。

  「雑阿含経」に「大地変じて大海となる。その時一の盲の亀あり。その寿(いのち)無量にして百年に一度、その頭を出すとせよ。また海中にただ一つの浮木ありて漂流す。この盲亀、頭を上ぐるの時、この木の穴に遇(あ)うこと可なりや」と、お釈迦さまが弟子の阿難に問われた。阿難は、そんな百年に一度だけ浮き上がってくる亀が、大海の小さな浮木になど到底「遇うべからざるがゆえなり」と答える。

  ありえない、と言う阿難にお釈迦さまは「この盲亀と浮木は互いに往きて違うといえども、あるいはまた相得ることあらん」(一度は行き違っても、もしかするとさらに百年もの時を経て、両者はまたあえるかもしれない)と諭されたという。海より深い遇いのふしぎさ。この世に再び人間として生まれてくることさえも、盲亀浮木の例よりもむずかしい。私はこれを読む度つくづく時と縁のふしぎさに打たれる。

  この日、水戸黄門を見たのも、掲出句に出合えたのも、何か大いなる意志の力が感じられて衿を正す。お彼岸だから、きっとあちらの世界からの発信にちがいない。因縁時節、亀鳴く春はふしぎがいっぱい満ちている。

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