2010年 3月 20日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉152 岡澤敏男 平安期の岩手山麓と農民

 ■平安期の岩手山麓と農民

  この童話(「狼森と笊森、盗森」)の世界は、岩手山麓(現在の滝沢村)を舞台におよそ1千年程前(平安時代後期)における自然と農民の関係をとりあげているものとみられます。物語のプロローグはいかにも地学徒賢治らしく、舞台となる風土の地史と植生の姿から語り始めるのです。

  「ずうつと昔、岩手山が、何んべんも噴火し…噴火がやつとしづまると、野原や丘には、穂のある草や穂のない草が、南の方から生えて、たうとうそこらいつぱいになり、それから柏や松も生え出し、しまひに、いまの四つの森ができました。」

  たしかに『世界有用植物事典』(平凡社)に「柏はやせ地や乾燥に強く海岸や火山礫地にも林をつくり、また厚い樹皮があるために野火にも抵抗性があり、山火事のあとにも生き残る」とあり、噴火がしづまった後に柏や松が生え出すということは植物の生態に精通する叙述だと感心させられます。

  四つの森ができたのは、柏が生えだしてから何百年の後のことでしょう。

  柏の枯れ葉がさらさらと鳴るある秋の日に、4人のけらを着た百姓が燧堀山を越えて四つの森に囲まれた野原にやってきました。彼らはたぶん谷地山の東裾の湯舟沢(現在のあすみ野団地)か石ケ森の東裾の外山(現在のけや木の平団地)に居住する農民だったと思われます。それは両団地の発掘による古代の竪穴住居遺跡から推理されるのです。

  滝沢村は県内でも有数の遺跡の宝庫といわれ、なかでも「湯船沢遺跡」と「けや木の平団地遺跡」は縄文時代から弥生・平安時代へと遺跡が重なっている複合遺跡として注目されています。

  両遺跡はいずれも市兵衛川の支流に沿う河岸段丘の緩やかな斜面に集落をむすび、その竪穴住居に代を重ねて居住していたと見られる。彼らは岩手山麓にも狩猟や木の実を採取に遠征したらしく、野営跡に縄文式土器塁が発見されています。またこれらの遺跡には多種多様の膨大な縄文・土師器や人・動物の埴輪、幼児の足跡が出土され、縄文時代後期(約4千年前)のものとみられるストーンサークルや、弥生時代(約2千年前)の遺跡から籾(もみ)の痕跡のついた土器が発見されています。

  これらは、狩猟、採集に依存した生活が稲、雑穀の農耕生活へと移行したことを示すものです。さらに「けや木の平団地遺跡」には平安時代の竪穴住居26棟が発掘され、縄文・弥生時代の丸い「炉」が、方形の「カマド」に代わって排煙設備を壁際に設けていることがわかりました。この遺構から製鉄農具とともに鍛冶工房跡さえ発見され、農耕に鉄器文化の浸透を示唆する注目すべき文化遺構と評価されました。

  こうした埋蔵文化財の発掘調査資料によって、童話の百姓たちの出自が湯船沢かけや木の平遺跡の住人と推定されるわけです。

  童話のモデルが「山刀や三本鍬や唐鍬や、すべての山と野原の武器」を装備することは鍛冶工房のある「けや木の平団地遺跡」の百姓の可能性が高い。この遺跡の方が湯船沢より燧堀山へ2`も近く、集落から約3`で鬼越坂の道に出ますから、岩手山麓の野原にやって来たのは「けや木の平団地遺跡」の百姓たちだったのかも知れません。

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