2010年 3月 27日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉153 岡澤敏男 森に囲まれた野原

 ■森に囲まれた野原

  賢治が童話の時代を平安時代のころと設定しているわけではないが、童話に描かれているのは未開の風景や「四人の百姓」が装備する農耕用具から平安時代のエミシ集落がイメージされるのです。賢治が平安時代に通じていることは「原体剣舞連」のつぎの詩章を見て分かります。
 
  青い面このこけおどし
  太刀を浴びてはいつぷか
  ぷ
  夜風の底の蜘蛛おどり
  胃袋はいてぎつたぎた
 
  これは胆沢エミシのアテルイ・モレ連合軍が征夷大将軍紀古佐美が率いる大和軍に大勝した巣伏の戦いの古事によるもので、敗走する大和軍の将兵が北上川で溺死した史実にもとづいている。

  「青い仮面(めん)こ」とは大和軍のこと、「いつぷかぷ」とは敗走将兵が溺れるさま、「胃袋はいてぎつたぎた」とは川水を吐いてもだえ苦しむさまと解されています。

  巣伏の戦いとは延暦8年(789年)のことで、大和軍の損害が「戦死者二十五人、賊の矢で倒れた者二百四十五人、溺死した者一千三十六人、裸になって泳ぎ帰った者一千二百五十七人」(「続日本記」)と言われている。

  もちろん紀古佐美の後を引継いだ坂上田村麻呂に胆沢エミシが攻略されたこと、アテルイとモレが京都に上り朝議により河内の国杜山で斬刑されたことも知るところでしょう。

  あるいは滝沢エミシの首領オオタケマルが田村麻呂軍と戦い敗退して討ち取られたことも。

  こうしてエミシ社会は律令国家にのみこまれ租税や労力を供給する義務を負うことになり、外山の竪穴集落の農民たちは増反のため新たな田畑の開拓に取り掛かるのです。竪穴住宅はふつう7〜8人程度の家族しか住めない広さでした。時が経つにつれ一戸内の家族は次第に増えて行き、はみ出した誰かが新しい土地を開拓して分家することになります。

  童話の「四人の百姓」は、そのように家族が増えた4戸の人たちで燧石(ひうちいし)の山を越えて新しい土地を探しにやって来ました。着いたのは4つの森に囲まれた小さな野原でした。この野原のある場所はどこなのか。今から1千年も前のことだから原生林のような4つの森で、その森を4つ展望できそうな野原とすれば、たぶん長篇詩「小岩井農場」パート七にある長者舘2号の広大な丘陵の一角だったのでしょう。まず先頭の百姓が〈幻灯のやうなけしき〉をみんなに指差しながら言ったのです。

  「どうだいゝとこだらう。畑はすぐ起せるし、森は近いし、きれいな水もながれてゐる。それに日あたりもいゝ。どうだ、俺はもう早くからこゝを決めて置いたんだ。」

  現在では水量こそ少ないが長者舘2号畑の西側にはたしかに小川も流れているのです。最初は姥屋敷のあたりかと推量したが、燧堀山(かどほりやま)と野原の位置との距離とか黒坂森や盗森が近すぎることなどから、視点を変えて長者舘丘陵の一角に童話の現場を想定したのです。

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