2010年 8月 5日 (木)

       

■ 〈肴町の天才俳人〜春又春の日記〉10 古水一雄 「紅東生雑記第五」

 【今回の日記について】「紅東生雑記第五」と表書きされたこの日記には、裏表紙に「月並ミヲ誤解スル勿レ/古柵居士」と筆書きされている。古柵居士は春又春の別号。記載期間は明治38年(1905年)5月28日から6月8日の12日間である。
 
     
  「紅東生雑記第五」表紙(盛岡てがみ館収蔵)  
 
「紅東生雑記第五」表紙
(盛岡てがみ館収蔵)
 
  【本文】
  序には次のような記述があり、この日記の性格を示しているので引用しておくことにする。
 
  余ハ余ノ趣味カラ文学ヲ作ロート思/フ一生吃々トシテ趣味ヲ高メコレガ統一ヲ/ハカラントス コレガ余ガ志ナリ雑言ヤ雑歌雑句ヲ集メ時ニ日記ヲ/挿ミコレヲ「紅東生雑記」第五トス
   ※吃々 他に影響されずに身を引き締めること
 
  ひとしきり読書の感想を書き付けたあとに次のような一節も書かれている。
 
  (5月28日)
  昼ハ狼煙(のろし)夜ハ花火、農林学校記念/祝賀会トイフ、提灯行列来トテ夕景ヨリ/小弟等騒グ
  花火鳴ル、ドン、ドーン、線香花火流レ/蛇クネル、トハ人ノ話余ハ見る気ニナ/レズ、帳場ニスワリ居ル
 
  盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)は、明治35年(1902年)3月27日の創立で、翌明治36年5月1日に入学式が挙行された。入学生は農学科30名、林学科30名、獣医学科24名、合計84名であった。

     
  盛岡高等農林学校(「岩手近代教育史第1巻明治編」より)  
 
盛岡高等農林学校(「岩手近代教育史第1巻明治編」より)
 
  開校式は授業開始と同時に挙行する予定であったが、前年には東北地方が大凶作に見舞われ、特にも岩手県の惨状が甚だしかったために見合わせることになった。翌明治37年には日露戦争が勃発して世上が騒然としていて開校式どころではなかったのであった。翌明治38年、日露戦争での旅順陥落や奉天の会戦勝利を受けて、5月28日の地久節(皇后の誕生日)に併せて開校式および祝賀会が開催されたのである。文部大臣も来盛し式典に参加した。昼には狼煙、夜は花火が打ち上げられ、盛農生300人による提灯行列には市民からの万歳の声があがり市中相当なにぎわいであったという。春又春の日記は当時の市中の沸き立つ様子を現代に伝えてくれている。

  しかし春又春といえば、そのような街のにぎわいを避けて、独り帳場にこもるのであった。にぎわいは趣味に合わないとでもいうように。

  提灯行列は、翌月早々にも行われている。5月31日から2日連続でロシアとの海戦勝利が号外で伝えられていて、6月1日には停車場衆のカンテラ行列、3・4日には市民による提灯行列が行われている。

春又春もバルチック艦隊全滅の知らせに“快ヤ快ヤ”を叫びながらも、次のような文章を書き残している。
 
  男子生マレテ最モ快ナルハコノ戦勝ノ国/ニ生レテ戦史ヲ編ムニ在リ、サレド精確ナル戦/史ハ高キ地位ノ人 ヨルベキノ公文書ト/多クノ費用歳月トヲ要ス、コレワガ願フトコロニアラズ、吾/ガ編マムトスルハソノ裏面史ナリ、戦勝/ノ影(ママ)ニハ如何ニ多クノ犠牲ヲ供(伴)ヘザルベカラ/ザルカ戦勝国ノ裏面ハ/如何ニ悲惨ニ如何ニ偉人ナルカヲ/記サムトスルハ吾ガ志ナリ
 
  “如何ニ悲惨ニ如何ニ偉人ナルカヲ”は、少々言葉足らずであるが、銃後を守る人々にも偉大を感じ取るべきという意味であろう。日露戦争の勝利に酔いしれる多くの国民のなかで、“戦勝の影には如何に多くの犠牲云々”と考えている人間は、そう多くはなかったのではなかろうか。
  残念ながら春又春の手で戦争の悲惨が描かれることはなかったのだが、春又春のもう一つの側面としてここに記しておくことにする。
  【参考文献】「岩手近代教育史第1巻明治編」岩手県教育委員会編

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