2010年 8月 5日 (木)

       

■ 〈音頭・現代語訳『あこがれ』石川啄木〉9 望月善次 楽声(がくせい)

 音楽の力は、これほど絶妙なのです。
 
日(ひ)暮(く)れて、楽堂(がくだう)萎(しほ)れし瓶(びん)の花(はな)の
香(かお)りに酔(ゑ)ひては集(つど)へる人(ひと)の前(まえ)に、
こは何(なに)、波渦(なみうづ)沈(しづ)める蒼(あを)き海(うみ)の
遠音(とほね)と浮(う)き来(き)て音色(ねいろ)ぞ流(なが)れわたる。│
霊(れい)の羽(は)ゆたかに白鳩(しろばと)舞(ま)ひくだると
仰(あふ)げば、一絃(いちげん)、忽(たちま)ちふかき淵(ふち)の
底(そこ)なる嘆(なげ)きをかすかに誘(さそ)ひ出(い)でゝ、
虚空(こくう)を遥(はる)かに哀調(あいてふ)あこがれ行(ゆ)く。
 
光(ひかり)と暗(やみ)とを黄金(こがね)の鎖(くさり)にして、
いためる心(こころ)を捲(ま)きては、遠(とほ)く遠(とほ)く
見(み)しらぬ他界(かのよ)の夢幻(むげん)に繋(つな)ぎよする
力(ちから)よ自由(まゝ)なる楽声(がくせい)、あゝ汝(なれ)こそ
天(あめ)なる快楽(けらく)の名残(なごり)を地(つち)につたへ、
魂(たま)をしきよめて、世(よ)に充(み)つ痛恨(いたみ)訴(うた)ふ。
                 (癸卯十一月卅日)
  〔現代語訳〕
  楽声(音楽の響き)
 
日も暮れて、この音楽堂には、萎れてしまった瓶に挿された花の
香りに酔ったように集まった人々の前に、
これはどうしたことでしょうか、波の渦が沈んでいる蒼い海の
遠くからの音のように、浮かび上がった音色が流れ渡ったのです。│
(人々は)霊の羽も豊かな白鳩が舞いくだったのかと
仰ぎますと、(楽器の)一絃は、忽ち深い淵の
底にある嘆きを、微かに誘い出して、
大空遥かに、哀しい調べは、憧れるよう流れ行くのです。
 
光と闇とを黄金の鎖にして、
傷心の心を捲き、遠く遠く
見しらぬあの世に夢・幻のように繋ぐ
力そのままの自由なる音楽の響きよ。ああ、お前こそ
天の快楽の名残を地に伝え
魂を清めて、この世に満ち満ちている傷みを訴えてやまないのです。
                 (明治三六年十一月卅日)


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