2010年 8月 7日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉172 岡澤敏男 中学生嘉内のユートピア

 ■中学生嘉内のユートピア

  嘉内は母方の縁者から導かれプロテスタントの教会に通い賛美歌を歌った少年期があった。また進学した中学の大島正健校長がキリスト者だったことなどからキリスト教に関心を深めていったとみられる。

  嘉内はやがてトルストイに傾倒し人生観や宗教観の影響がみられた。さらに民話『イワンの馬鹿』を愛読するに及びロシア的な農業観に惹(ひ)かれていったらしい。神道禊教を信仰する父善作は農耕を嫌って郡役所勤めをしていたが、嘉内は幼時から自然に親しみ田畑を好んで小作人や雇いの人らにまじわり農仕事を手伝っていました。

  隔年のように襲う水害に荒廃していく農村の姿をみて、小学時代のころ「荒れ果てた村々を美田で埋め尽くしたい」と級友に語ったという。

  中学3年のとき初めて弁論会に登壇したとき、その演題が「美的百姓」だったという。「美的百姓」とは小説家徳富健次郎(蘆花)の『みみずのたはこと』に由来する蘆花の造語であるらしい。

  蘆花は、明治40年(1907年)に東京を西に3里隔てた北多摩郡深谷村字粕谷(現世田谷区粕谷1丁目・蘆花公園の隣接地)に移住し1反5畝ほどの土地で百姓をしながら読書や執筆の生活を楽しんでいたが、この田園生活を蘆花は「美的百姓」と賛美したのです。

  蘆花はトルストイに心酔して39年にヤースナヤ・ポリャーナを訪ねています。粕谷に移住する前年のことでした。トルストイは蘆花が訪れた4年後の1910年(明治43年)11月に、家庭や一切を放棄して家出しその出奔先の小駅で肺炎で病死したのです。82歳でした。ちなみに今年はトルストイの死後100周年にあたっています。

  『みみずのたはこと』はキリスト教的な田園生活から生まれたエッセー集だった。だがその中の「土の上に生れ、土の生むものを食うて生き、而して死んで土になる。我儕(われら)は畢竟土の化物である。土の化物に一番適当した仕事は、土に働くことであらねばならぬ。あらゆる生活の方法の中、尤もよきものを択み得た者は農である」という一節に、嘉内は「農」の根底をとらえた思想と感銘したのでしょう。

  弁論会の「美的百姓」論にこの一節を引用しながら「諸君農家は神聖であります。似非非文士、豪傑がり屋、自称哲学者のいづれよりも勝って居ります。それ故に私は諸君が須らく美的百姓、農業家としてたたれんことを御願い致します」と力強く結んでいるのです。

  嘉内は『校友会雑誌』や校内同人誌『嵐』『巡礼』に作品を掲載していたが、4年生の秋に書いた「若葉の朝…我が理想の村」という小説には嘉内のユートピアがあった。この中で「道路が整備され、村立病院や時計台、娯楽・教養・運動などの設備を備えた公会堂なども存在し、農民たちは誇りを持って自らの農地を耕していた」と描かれた模範農村こそは、かねてより心の中に作り上げてきた「花園農村」の青図面だったとみられます。

  盛岡高等農林に入学した嘉内、賢治が室長をする南寮9号室の座談で高農入学の理由を「トルストイを読んで百姓の仕事の崇高さを知り、それに浸ろうと思った」と語ったのは、そうした農業観による背景があったのです。

  偶然のネットをくぐりぬけて賢治と邂逅した嘉内は、「美的百姓」を愛しながら「花園農村」というユートピアを秘めているマルチ青年でした。


 ■徳富蘆花「美的百姓」(抜粋)

  『みみずのたはこと』(「ひとりごと」)より

  彼は美的百姓である。彼の百姓は趣味の百姓で、生活の百姓では無い。然し趣味に生活する者の趣味の為の仕事だから、生活の為と言うてもよい。(中略)美的百姓の家は、東京から唯三里。東の方を望むと、目黒の火薬製造所や渋谷の発電所の煙が見える。…東南は都会の風が吹く。北は武蔵野である。西は武相それから甲州の山が見える。西北は野の風、山の風が吹く。彼の書院は東京に向いて居る。彼の母屋の座敷は横浜に向いて居る。彼の好んで読書し文章を書く廊下の硝子窓は、甲州の山に向うて居る。彼の気は彼の住居の方向の如く、彼方(あっち)にも牽かれ、此方(こっち)にも牽かれる。

  彼は昔耶蘇教伝道師見習いの真似をした。英語読本の教師の真似をした。新聞雑誌記者の真似もした。漁師の真似もした。今は百姓の真似をしている。真似は到底本物ではない。彼は終に美的百姓である。


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