2010年 8月 28日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉175 岡澤敏男 続・地質調査の足跡

 ■続・地質調査の足跡

  前述した通りB班が調査した地区は、第2区域の一部と第3区域のほぼ全域に当たるから、全員(3名)による足跡もこれらの区域のなかにあるはずです。

  第2区域とは「北上川の西方に於ける平地並に盛岡附近及び北上川の東岸に沿へる比較的細長き平地を含有せる低地」で、賢治たちB班は、この第2区域の北部を担当しています。

  「報文」の説明によると「北部は南部より少しく高位置を占め観武ケ原、種馬所等を載せる台地」といわれるので、「大正五年七月」の歌稿343に記載されている「茨島野」が該当する台地とみられます。したがってこの台地は賢治が単独で調査した地区と考えられるから、全員で調査したのは「第3区域内のいずれか」にあったとみなされます。

  そこで「報文」は第3区域についてどのように記載されているかといえば、「図幅(盛岡附近地質図)の西端に近く南走する岡巒(こうらん)にして主として第三紀層より成り新火山岩を随伴す」とあり、「其北端は石ケ森(四四六米)より起り燧堀山(四六六米)高峰山(四二〇米)烏泊山(三八九米)となり、雫石川を隔てゝ宰郷山(三六八米)に対峙し」とある。このなかで宰郷山はD班の調査区域だから調査対象地区では石ケ森から烏泊山に至る岡巒であり、この山々の岩石をたたき採取しそのサンプルをもって地質を検索したものとみられます。

  説明によれば、採取したサンプルは「主として流紋岩質凝灰岩及び安山岩質凝灰岩並びに半熔頁岩及び角礫岩」であったと解説されている。

  このうち流紋岩質凝灰岩は「鬼越山以北に稍広く分布し、金沢、影添坂に於て好露出を見る」とあり、安山岩質凝灰岩は「篠木峠及び鬼越坂附近に産す」とあり、半熔頁岩は「高帽山(高峰山のことか?)鬼越山及び其以南の所々に産す…大沢坂峠に産するものは殊に緻密にして」と記載されているのです。

  以上のことからB班全員で調査したのは「大正五年七月」の歌稿にある地名(石ケ森、大沢坂峠)以外の岡巒地区と考えられます。すなわち鬼越山、燧堀山、高峰山、篠木峠、烏泊山を踏破し地質調査の岩石をサンプリングして野稿(野帳)に記録したものとみられる。

  これらのフィールドワークが実行されたのは恐らく7月8日(土)から7月20日(木)の第1学期授業終了日までの期間で、しかも週末(土、日)に限られていたとすれば8、9、14、15の4日に集中し実施したもので、かなりハードワークだったと推察されます。なお7月21日以降に賢治が単独で地質調査を実施したコースを検証すれば、「報文」から歌稿に欠けている地名が補足されるようです。

  いままで歌稿の配列に若干の違和感がありました。それは沼森へは湯船沢を遡行するコースが至便と考えられるのに、なぜ石ケ森を迂回したのか。また沼森へたどった道はどこなのかというナゾがあったのです。そのナゾが「報文」の解説によって氷解しました。

  前述の「流紋岩質凝灰岩」の所在について「好露出」の場所として「金沢、影添(坂)」を特記しているが、この露出の発見者は賢治とみられます。金沢とは石ケ森に隣接する大森(473・2米)の西側を流れる沢(上流は沼森平の沼)で、影添坂は金沢の下流に接点を持ち大森の西の稜点を伝って上り沼森平に至る小道なのです。歌稿にはないが、短篇「沼森」の冒頭一行の内容から大森も調査したことうかがわれます。

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