2010年 9月 2日 (木)

       

■ 〈肴町の天才俳人〜春又春の日記〉12 古水一雄 左千夫翁ノ歌アマリ感服出来ヌ

 引き続き春又春と左千夫との交流について時間を拡大してみていきたい。
  子規に心酔する春又春は、短歌一辺倒の左千夫に不満をもっていて、時折その不満を日記に書き付けている。
 
  (明治38年6月6日)

  左千夫翁ノ歌近来アマリ感服出来ヌモノ多イ、「アシビ」二の三ノ歌ナド面白シト思フモノナシ、節氏ノ写生歌コレハ五七調デ写生シタニ過ギナイ、苟(いやしく)モ歌ナラ歌フ言葉デアル、音調ガナケレバナラヌ、単ニ俳句ノ長イモノトミルナラ、長俳句と見ルナラコレデヨイカモシレム、歌フ歌デハ駄目ト思フ、

  注=「『アシビ』二の三」は明治38年5月26日発行。

  注=「節」は長塚節(ながつかたかし)、根岸派の歌人・小説家。
 
  左千夫への不満について少し補足すると、「馬酔木」第2巻2号・3号において、短歌の写生の問題をめぐり、左千夫と節との間に短歌論争がなされていた。それは大谷利彦(前出)によって次のように要約されている。

  “節が短歌を俳句と同様に写生という基礎の上に立つべきものであり、しかも俳句より字数が多いだけ、いっそう精密に表現する必要があると、純粋客観写生歌の立場を主張したのに対して、左千夫は、「写生趣味」という点では、短歌は本質的に俳句に到底及ばないものであり、厳密な意味では写生歌とか、純客観歌は存在し得ないものであるとして、短歌における主観、主情を重んずべきと説いた。”と。

  この論争について春又春は、まず左千夫の歌に対して“面白シト思フモノナシ”とし、さらに節の歌について“節氏ノ写生歌コレハ五七調で写生シタニ過ギナイ、苟モ歌ナラ歌フ言葉デアル、音調ガナケレバナラヌ”と言葉の調子、すなわち「音調」を重んずることを主張している。

  春又春の作風はといえば、
 
   クレナヰノホノホ赤玉玉クダケクダケ
   咲タル牡丹花カモ
   ワラビ山ニ雨フリソゝギ少女ラハアカ
   モノスソニワラビフミツゝ
 
  などのように同音(同語)を用いた歌を詠む例が次第に顕著になっていく。実作経験のほとんどない筆者にはその是非を語る資格はない。いずれ次第に短歌の投稿には消極的になっていくのは主観にこだわりロマンチストたらんとする左千夫の短歌にあきたらなくなったことも遠因となっていると思われる。また、星山月秋の家業(繭の買い付け)で地方での仕事が多くなって杜陵短歌会を開く機会がなかなかもてず、再三にわたる左千夫からの投稿の誘いにも応ずることがなくなっていくことになる。

  しかし、春又春は短歌から遠ざかったわけではなく、旧作をせっせと書き写し、400首ほどを集めて第一巻「黄金里歌」の続編を仕上げたりもしている。
 
     
  左千夫から春又春へのはがき複製(盛岡てがみ館収蔵)  
 
左千夫から春又春へのはがき複製(盛岡てがみ館収蔵)
 
(明治38年7月21日)春又春の日記
   「アシビ」第二ノ四クル、思ヒ設けザ
   リキ、楓岡ノ余ガコノメル橋本楓光君
   カト思ヒシガ君ナリケリ、ソノ他ノ諸
   氏仲々盛ンナリ、余一首モ出サズ、サ  ビシ、
 
(明治38年8月16日)左千夫ハガキ
   春又春宛
   拝啓漸く秋風吹きそめ候小生少々ハ旅
   行してアシビ編輯おくれ候只今大忙な
   り原稿中杜陵会諸子のものなし如何致
   し候やあるならハ大至急送られたく候
   尤も月秋君だけハきて居候貴兄召集一
   件如何致候や御近状伺上候
 
(明治38年11月7日)左千夫ハガキ
   春又春宛
   近頃御送稿なきは如何何にか御忙しき
   事にてもあるにやアシビも漸く活動せ
   んとする場合大に御投稿待上候 早々
 
     
   
     
  (明治39年4月1日)左千夫ハガキ
   春又春宛
   拝啓好期の好天気に近頃御便りも無之
   如何致し候也何の変わりたる事にても
   あるにやと気になり候楓岡君消息致し
   候も是も返事なく候何か小生に対して
   不平にてもあるにやとも思出(ママ)
   いろへ気ニかゝり候故伺上候万一小生
   に御不平なとあれハ遠慮なく申越され
   度存候 不悉
   〈逆筆〉こんな邪推をするハ失敬なこ
   とゝも考候
 
  (明治39年4月20日)春又春の日記
   左千夫先生ヨリ端書、返事クサへイヒ
   度イコトイフテヤル、「アシビ」原稿
   四十首モソヒテヤル
 
  杜陵吟社に一目を置き、春又春に対して特別な好意を示している左千夫は、春又春に再三にわたって投稿を促すが、滞りがちであることが一連のハガキや日記から読み取れる。それどころか無視しようとする様子さへうかがわれるのである。

  7月21日の日記にあるように“余一首モ出サズ、サビシ”は、短歌を送ってやっているのに一首も「アシビ」に取り上げてもらえない春又春の落胆と焦りの言とみた方がよかろう。

  左千夫への不満と不平とが益々増大していったものと思われる。やがて、「馬酔木」から「アカネ」への移行(明治41年2月1日)と星山月秋の死(明治41年9月15日)を契機に中央歌壇とは無縁な時期へと移っていくのである。ただし、不思議なことに死の直前まで左千夫との交流は続いているので、折りにふれてその様子も取り上げていくことにする。

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