2010年 9月 4日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉176 岡澤敏男 七つ森から溶岩流まで

 ■短篇「沼森」の位相

  農学第2部2年生(12名)が大正5年7月(7日から月末まで)の夏期実習で成し遂げた「盛岡附近地質調査報文」および添付の地質図は、約1世紀以前に樹立した地学徒たちの若々しいエネルギーの金字塔といってよいのです。しかもこの実習にあたって賢治がクラスをリードして関教授の許可をとりつけたという見解もあり、あるいは「石ッこ賢さん」の到達点だったのかも知れません。

  「報文」は大正6年1月3日発行の盛岡高等農林『校友会報』32号に掲載されましたが「報文・終結」の次の一節が注目されます。

  「閑散なるの日一鎚を携へて山野に散策を試みんか、目に自然美を感受し心身爽快なるを覚ゆるのみならず造化の秘密を看破するを得、一礫一岩塊と難も深々たる意味を了解し、尽き難きの興味を感ずるは、生等の親しく経験したる所とす、加之冬夏の休業に際し地質図を手にして長期の跋渉を試みんか、至る所目前に友ありて自然の妙機を語り旅憂を一掃せしむるのみならず、進んで宇宙の心理を探求せんとするの勇気を勃々たらしむ」

  この文章の前段には賢治らしい情調がうかがわれ、後段には小菅健吉らしい語調(大正6年7月1日発行の『アザリア』第1号の「流るゝ子」とある巻頭言)が察知されます。

  すなわち賢治にとっては地質調査が地学的興味にとどまらず「自然の造化の秘密」と交感し、「一礫一岩塊」に〈自然の汎神(仏)を見出だした〉と境忠一(『評伝宮澤賢治』)が指摘するように賢治文学の萌芽においてこうした自然観と宗教性がめざめているのです。このように地質調査の成果は単に地学的分野にとどまらず、賢治文学のジャンルを短歌から詩や短篇や童話へと展開するビッグバンだったのでしょう。

  単独調査行で詠まれた一連の短歌には各道程における景観を心象的に描写しているが、「沼森」での作品には、短歌では表現しにくい「ただならぬ自然」との交感があったことをうかがわせます。

  「ただならぬ自然」とは「坊主頭の沼森」、「沼森の黒(陰気)」というナゾめいた現象です。3年後(大正9年9月)の短篇「沼森」にはこの現象のナゾ解きをしています。

  一つは沼森平の泥炭の地史をたどって「沼森の黒」を解明している。「泥炭だぞ。泥炭があるぞ。さてこそこの平はもと沼だったな。道理でむやみに陰気なやうだ」と述べているのです。

  また「坊主頭の沼森」についても七つ森と同様の現象と知っていたわけで、「この丘のいかりはわれも知りたれどさあらぬさまに草むしり行く」との詠草はそのナゾを指しているのです。

  しかし「なぜさうこっちをにらむのだ。…悪いことしないぢゃないか。まだにらむのか。勝手にしろ」とあるのは裏返しした親近感の表明であり、賢治は沼森に〈自然の仏〉を見いだして同情したものとみられる。

  大正9年5月ころに保阪嘉内にあてた手紙のなかで二人で岩手山に登山した一夜(大正6年7月)を思い出しながら「あの柏原の夜の中でたいまつが消えてしまひ、あなたとかはるがはる一生懸命そのおきを吹いた。銀河が南の雲のきれまから一寸見え、沼森は微光の底に睡つてゐる」と沼森の存在を強調しています。

  嘉内を法華経に折伏しようと説得する手紙においてとりあげた沼森の位相とはどんなものだったのでしょうか。

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