2010年 9月 9日 (木)

       

■ 〈音読・現代語訳『あこがれ』石川啄木〉17 望月善次 錦木塚(にしきぎづか)

 恋こがれた女(政子)のもとへと千日も通ったが果たされなかった男(隣の村長の子)についての鹿野地方における伝説に取材した作品は、啄木本来の構想からは、全6章のものであった。しかし、実際は3章までのもので筆を擱(お)いた。掲載分量の関係から、今回は、「前文+3章」の形で、4回の掲載としたい。
 
〔昔(むかし)みちのくの鹿角(かづの)の郡(こおり)に女(おんな)ありけり。よしある家(いえ)の流(なが)れなればか、かかる辺(へ)つ国(くに)はもとより、都(みやこ)にもあるまじき程(ほど)の優(すぐ)れたる姿(すがた)なりけり。日毎(ひごと)に細布(ほそぬの)織(お)る梭(おさ)の音(ね)にもまさりて政子(まさこ)となむ云(い)ふなる其名(そのな)のをちこちに高(たか)かりけり。隣(となり)の村長(むらおさ)の子(こ)がいつしかみそめていといたう恋(こい)しにけるが、女(おんな)はた心(こころ)なかりしにあらねど、よしある家(いえ)なれば父(ちち)なる人(ひと)のいましめ堅(かと)うて、心(こころ)ぐるしうのみ過(すご)してけり。長(おさ)の子(こ)ところの習(なら)はしのままに、女(おんな)の門(かど)に錦木(にしきぎ)を立(た)つる事(こと)千束(ちつか)に及(およ)びぬ。ひと夜(よ)一本(ひともと)の思(おも)ひのしるし木(き)、千夜(せんや)を重(かさ)ねては、いなかる女(おんな)もさからひえずとなり。やがて千束(ちつか)に及(およ)びぬれど政子(まさこ)いつかなうべなふ様(さま)も見(み)えず。男(おとこ)遂(つい)に物(もの)ぐるほしうなりて涙川(なみだがわ)と云(い)ふに身(み)をなくしてけり。政子(まさこ)も今(いま)は思(おも)ひえたえずやなりけむ、心(こころ)の玉(たま)は何物(なにもの)にも代(か)へじと同(おな)じところより水(みず)に沈(しず)みにけり。村人共(むらびとども)二人(ふたり)のむくろを引(ひ)き上(あげて、つま恋(こ)ふ鹿(しか)をしぬび射(い)にするやつばら乍(なが)らしかすがにこのことのみにはむくつけき手(て)にあまる涙(なみだ)もありけむ、ひとつ塚(つか)に葬(ほう)りて、にしき木塚(ぎづか)となむ呼(よ)び伝(つた)へける。花輪(はなわ)の里(さと)より毛馬内(けまない)への路(みち)すがら今(いま)も旅(たび)するひとは、涙川(なみだがわ)の橋(はし)を渡(わた)りて程(ほど)もなく、草原(くさはら)つづきの丘(おか)の上(うえ)に、大(おお)きなる石(いし)三(みっ)つ計(はか)り重(かさ)ねて木(き)の柵(さく)など結(ゆ)ひたるを見(み)るべし。かなしとも悲(かな)しき物語(ものがたり)のあとかた、草(くさ)かる人(ひと)にいづこと問(と)へばげにそれなりけり。伝(つた)へいふ、昔(むかし)年々(としどし)に都(みやこ)へたてまつれる陸奥(むつ)の細布(ほそぬの)と云(い)ふもの、政子(まさこ)が織(お)り出(いだ)しけるを初(はじ)めなりとかや。〕
 
  錦木塚(にしきぎづか)全4回の1:前文〔現代語訳〕

〔昔、陸奥の鹿野に女性がおりました。由緒ある家筋であることもあり、その辺りの国はもとより、都にもいない程の優れた容姿でありました。毎日織っている(その地方名産の)「細布(ほそぬの、幅の狭い布)」を織る際の「梭(オサ)」の音にも勝って政子という名は、色々なところで高かったのです。隣村の長(おさ)の息子が、いつか見初めて、強く強く恋したのですが、女性の方は、気持ちが無かったわけではなかったのですが、由緒ある家でしたので、父親のガードも堅く、気にかけながら過ごしておりました。長の息子は、その地方の習慣に沿って、女性の(家の)門に(色でまだらに塗ったもので、一日一本を相手の女性の家の門に置く。置かれた女性は、気にいった相手の場合は取り入れ、気にいらない相手の場合はそのままにしておく。しかし、千日置かれた場合は、余程のことがないと受け入れる風習の)「錦木」を女性の家の門に立てることが、千本に至りました。一晩一本の思いを掛けた印の木を、千日の夜重ねられては、どんな女性も逆らえないものです。さて、千本になったのですが、政子は、少しも良しとする様子が見せませんでした。遂に、男性の方は、気が変になり、涙川という川に身投げをしてしまいました。政子の方も、今度は堪えることができなくなったのでしょうか、「心の思いは何物にも代えることはできません。」と言って(若者が身投げをした)同じ所から(川の)水に沈んだのです。村人達は二人の死骸を引き上げて、この人達は、「妻を恋う鹿を、こっそり射殺すような(風流を解しない)」人達でしたが、しかしながら、このことだけには、無骨な手を越える涙もあったのでしょうか。(二人の遺骸を)一つの塚に埋葬して「錦木塚」と呼んで今に伝えています。今でも旅をする人は、花輪の里から毛馬内に至る途中、涙川の橋を渡って間もなく、草原続きの丘の上に、大きな石を三つばかり重ねて、(その周りを)木の柵などを結んでいるのを見ることができます。草を刈っている人に「悲しい悲しい物語の跡はどこでしょうか。」と尋ねてみるとそれでした。昔、毎年、都に献上しておりました「陸奥の細布」というものは、この政子が織ったのが初めだと伝えられております。〕


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします