2010年 9月 16日 (木)

       

■ 〈春又春の日記〜肴町の天才俳人〉13 古水一雄 第六(その一)

 啄木が「あこがれ」を懐に節子との結婚式に臨むために帰盛の途についたのは明治38年(1905年)5月20日のことであった。処女詩集「あこがれ」は5月3日に小田島書房より刊行されていた。
  結婚式は友人らの計らいで5月30日に予定されていたものの、肝心の啄木は仙台で下車し、土井晩翠宅を訪れたりしながら日を暮らしていて予定の結婚式に姿を見せなかった。もっとも結婚届はすでに5月12日に父・一禎によって市役所に出されていた。
  仙台から盛岡に戻ったのは6月4日である。3月4日に渋民村に転居するまで盛岡に滞在し、その間に文芸雑誌「小天地」を刊行している。
  啄木の記事が日記の中に初めて登場するのは、「第六(その一)」のなかにである。
 
  (6月10日)
  石川啄木ハ当地ニ来テ居ルソーナ、オヤ
  ヂ(ジ)ノ人ハアル都合デオ寺ヲ逐ヒ出
  サレタ、ソコデ啄木氏ハ一家ヲヤシナワ
  ネバナラヌ事ニ成ツタゲナゴ両親ト妹ト
  未来ノワイフト四人ダソーナ、
  新体詩ハ明治ニ始マッタカラ明治文学デ
  見ルベキモノハ新体詩ダ、有望ダトイフ
  人ガアル、
 
  “オヤヂ(ジ)ノ人ハアル都合デオ寺ヲ逐ヒ出サレ”は、宝徳寺の住職であった啄木の父・一禎が宗費怠納のため本山より罷免され、寺を追われたことを指す。また、“未来ノワイフ”とあるのは、妻・節子を指しているが、春又春たちの耳には啄木の結婚式欠席の事件のみがうわさで伝わり、節子の入籍のことは伝わってきていなかったのであろう。
  気になったのは文末表現である。揶揄(やゆ)とも受け取れなくはないからである。おそらく、この表現は盛岡人の啄木に対する人物評価の平均値と考えてよかろう。
  せっかく結婚式の準備を整えて待っていた友人たちの憤慨の嵐の後であることを思えば、直接的被害をこうむることのなかった春又春には、対岸の嵐をみて憐愍(れんびん)の情を抱いたに過ぎなかったろうから。
 
  同じ日の日記のなかに明星派批判が書かれている。少し長い文章であるが取り上げることにする。
  
  ナントカシテ厭味ナ月並ミナ明星一派ヲ
  全滅シテ仕舞ヒ度イ、シカシ世ノ人ハ気
  取ル人月並ノ人ヲ有リガタルノデコマル、
  ソコデ明星派ヲシメヤウトスリャソノ葉
  ナリ根ナリ世ノ人カラシテ済度センケリ
  ヤナラヌワケデアル
  シカシ大キイコトハ口デイクラモシャベ
  ルサ、実際明星派ヲヘコマス程ノ名歌ハ
  出ナイ向フバカリ見エテ、足ガ進マンノ
  ダ、向フデ明星派ハ善良ナル旅人ヲゴマ
  カソトウ盛ンニゴマノハイヲ振マイテ居
  ルガ、ソレヲ見ル根岸派ハ氣(気)ガ氣
  デナイ、早ク行ツテ旅人ヲ助ケテヤリ度
  イ、ト毎日思フノデアル、トサ、呵々
   ※済度 困ったり苦しんだりしている
  境遇から救い出すこと
  
  攻撃の対象が明星派に向けられているものの、根岸派のふがいなさにも触れている。明星派も根岸派もどちらも和歌の革新を目指してつくられた結社であるが、明星派(新詩社)は与謝野鉄幹・晶子夫妻を中心として、封建的な束縛を解き放つ自我の拡充と本能を解放しようとする人間観と、主観や空想による美を唯一のものとする芸術観によって、多くの支持を得ていた。
  一方、根岸派(根岸短歌会)は子規と子規亡き後、伊藤左千夫や長塚節を中心として、写実的萬葉調を基盤としながら、左千夫によって写実的傾向を深め、節によって客観的自然写生による作風として進展されていった。それはロマン主義と現実主義の対立であったといってよかろう。
  17日には次のようなことも書き付けている。
  
  ハイカラニ成ランケリヤ自分ノ美ガ発揮
  サレナイト思フ人ガアル、装飾シナケレ
  ヤ美デナイト思フ人ガアル、ハイカラヲ
  美ト思フ人俗デアルガ装飾ヲ第一トスル
  モ俗デアル、形式ノ美シカ出来ナイ人ハ
  マコトニアハレム可キデアル、内実ノ美
  ヲ発揮セウトス人ガ少ナイ、形式ノ美ハ
  アゝ滔々トシテ現代ノ文明カ、風俗ノ流
  行、文学ノゴマカシ、屎(くそ)マクラ
  ヘ、
   
  “屎マクラエ”は何とも過激な表現であるが、「ハイカラ」は西欧文明化を、「装飾」は唯美主義を、「形式」は模倣的技巧を指しているのであろう。文藝の急激な西欧化へのいらだちともみえる。


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