2010年 9月 16日 (木)

       

■ 〈音読・現代語訳『あこがれ』石川啄木〉19 望月善次 錦木塚(のろい矢の巻)

 「錦木塚」全4回のうち、分量の関係から、詩の本文は3回に分けての掲載としたい。今回はその第2の「のろひ矢の巻(長の子の歌)」。政子に恋焦がれ、千日通うも果たされず、自ら命を断った「隣の村長の子」からのものである。
 
わが恋(こい)は、波路(なみぢ)遠(とお)く丹曽保船(にそぼふね)の
みやこ路(ぢ)にかへり行(ゆ)くを送(おく)る旅人(たび)が
袖(そで)かみて荒磯浦(ありそうら)に泣(なげ)きまろぶ
夕(ゆう)ざれの深息(ふかいき)にしたぐへむかも。
夢(ゆめ)の如(ごと)影(かげ)消(き)えては胸(むね)しなえて、
あこがるゝ力(ちから)の、はた泡(あわ)と失(う)せぬ。
 
遠々(とほどほ)き春(はる)の野辺(ぬべ)を、奇琴(くしごと)なる
やは風(かぜ)にさまされては、猶(なお)夢路(ゆめぢ)と
玉蜻(かぎろひ)と白(しろ)う揺(ゆ)るゝおもかげをば
追(お)ふなべに、いづくよりか狭霧(さぎり)落(お)ちて、
砂漠(すなはら)のみちことごと閉(と)ぢし如(ごと)く、
小石(こいし)なす涙(なみだ)そでに包(つつ)み難(がた)し。
 
しるしの木(き)妹(いも)が門(かど)に立(た)てなむとて
千代(ちよ)あまり聞(き)きなれたる梭(おさ)の音(おと)の
ああそれよ、生命(いのち)刻(きざ)む鋭(と)き氷斧(ひをの)か。
はなたれて行方(ゆくへ)知(し)らぬ猟矢(さつや)のごと、
前後(まへしりへ)暗(やみ)こめたる夜(よ)の虚(うつろ)に
あてもなく滅(ほろ)び去(い)なん我(われ)にかある。
 
新衣(にひごろも)映(はゆ)く被(かづ)き花束(はなたば)ふる
をとめらに立(た)ちまじりて歌(うた)はむ身(み)も、
かたくなと知(し)らず、君(きみ)が玉(たま)の腕(かひな)
この胸(むね)にまかせむとて、心(こころ)たぎり、
いく百夜(ももよ)ひとり来(き)ぬる長(なが)き路(みち)の
さてはただ終焉(をはり)に導(ひ)く綱(つな)なりしか。
 
呪(のろ)ひ矢(や)を暗(やみ)の鳥(とり)の黒羽(くろば)に矧(は)ぎ、
手(て)にとれど、瑠璃(るり)のひとみ我(われ)を射(ゐ)れば、
腕(うで)枯(か)れて、強弓弦(つよゆづる)をひく手(て)はなし。
三年(みとせ)凝(こ)るうらみの毒(どく)、羽(は)にぬれるも
かひなしや、己(おの)が魂(たま)に泌(し)みわたりて
時(とき)じくに膸(ずゐ)の水(みず)の涸(か)れうつろふ。
 
愛(あい)ならで、罪(つみ)うかがふ女(め)の心(こころ)を
きよむべき玉清水(たましみず)の世(よ)にはなきを、
なにしかも、暁(あけ)の庭面(にはも)水錆(みさび)ふかき
古真井(ふるまゐ)に身(み)を浄(きよ)めて布(ぬの)を織(を)るか。
梭(をさ)の手(て)をしばし代(か)へて、その白苧(しらを)に
丹雲(にぐき)なしもゆる胸(むね)の糸(いと)添(そ)へずや。
 
ああ願(ねが)ひ、あだなりしか、錦木(にしきぎ)をば
早(は)や千束(ちつか)立(た)てつくしぬ。あだなりしか。
朝霜(あさじも)の蓬(よもぎ)が葉(は)に消(き)え行(ゆ)く如(ごと)、
野(の)の水(みず)の茨(うばら)が根(ね)にかくるゝ如(ごと)、
色(いろ)あせし我(わ)が幻(まぼろし)、いつの日(ひ)まで
沈淪(ほろび)わく胸(むね)に住(す)むにたへうべきぞ。
 
わが息(いき)は早(は)や迫(せま)りぬ。黒波(くろなみ)もて
魂(たま)誘(さそ)ふ大淵(おほふち)こそ、霊(れい)の海(うみ)に
みち通(かよ)ふ常世(とこよ)の死(し)の平和(やすらぎ)なれ。
うらみなく、わづらひなく、今(いま)心(こころ)は
さながらに大天(おほあめ)なる光(ひかり)と透(す)く。
さらば姫(ひめ)、君(きみ)を待(ま)たむ天(あめ)の花路(はなぢ)。
 
  のろひ矢の巻(長の子の歌)〔現代語訳〕
 
私の恋は、波路も遠く丹曾保船が
都への道に帰っていくのを送る旅人が
袖を噛んで荒磯に泣き転ぶ
夕方の深い息にも喩えられるようなものです。
夢のように影は消えて胸(心)も萎み、
その上、憧れる力も泡のように消えたのです。
 
遠い遠い春の野辺を、不思議な琴のような
柔らかい風に呼び覚まされてより、なお夢路に
蜻蛉のように白く揺れる面影を
追うにつれて、どこからか霧も落ちてきて
砂漠の道も全て閉じてしまったように
小石のように重い涙は、袖に包むことなどできないのです。
 
(政子への思いの)印の木(錦木)をあの人の門に立てようとして
千夜に余り聞き慣れた(政子の機を織る)オサの音の
ああ、それこそが生命を刻む鋭い氷の斧だと言えばよいのでしょうか。
放たれて行方を知らない狩猟に用いる矢のように
前も後ろも、闇が一杯の夜の空洞に
あてもなく滅び去る私なのでしょうか。
 
新しい衣装を被り、花束を振る
乙女達に混じって歌うその人が
心を許さないとは私は知らずに、その人の玉のような腕を
この胸にからませようとして、心をたぎらせ
幾百夜を一人来た長い道も
ああ、私を終わりに導く綱であったのですね。
 
呪いの矢を闇の鳥の黒い羽で作って
手にはしたのですが、瑠璃のような瞳が私を射たので
腕は枯れて、強い弓を引く手などなかったのです。
三年にも凝集した恨みの毒を、(呪いの矢の)羽に塗ったことも
甲斐はなかったのです。私の魂に染み渡って
変わることのない心の奥底の水も枯れてしまうのです。
 
愛ではなくて、罪を願っている女の心を
清めるべき玉清水もこの世にはないのですから、
暁の庭にある水錆も深い
古い井戸に身を清めて布をおるのでしょうか。
(機を織る)オサの手をちょっと休めて、その無地の横糸に
夕方の赤い雲ともなって燃える胸の糸を、どうして、添えないのでしょうか。
 
ああ、私の願いは無駄だったのでしょうか。錦木を
(約束通り)もう千本も立ててしまいました。(それは)無駄だったのでしょうか。
朝の霜が降りた蓬の葉に消えて行くように
野の水が、茨の根に隠れるように
色も褪せた私の幻よ。何時の日まで
沈み行く思いが湧く胸(心)に堪えながら、住むことができましょうか。
 
ああ、私の息(命)はもう(終わりが)迫ってきました。黒い波をもって
魂を誘う深い淵こそ、霊の海へと
道が続く変ることのない〈死の安らぎ〉なのです。
今、心は、恨みもなく、心配もなく
まるで大空の光のように透き通っています。
さようなら、政子姫。あなたを天の花の道で待ちましょう。

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