2010年 9月 19日 (日)

       

■ 〈音読・現代語訳『あこがれ』石川啄木〉20 望月善次 錦木塚の4、梭(おさ)の音の巻

 「錦木塚」全4回のうち、分量の関係から、詩の本文は3回に分けての掲載としたい。今回はその第三の「梭の音の巻」。「隣の村長の子」が恋焦がれた相手である政子からのもの。この後には、二人の死後、「政子の父の述懐」、「葬りの日の歌」、「二人の天上の巡り会いの歌」が続く構想であったこと末尾の文章が示す通りである。
 
さにずらひ機(はた)ながせる雲(くも)の影(かげ)も
夕暗(ゆうやみ)にかくれ行き(ゆ)ぬ。わがのぞみも
深黒(ふかくろ)み波(なみ)しづまる淵(ふち)の底(そこ)に
泥(ひぢ)の如(ごと)また浮(う)きこずほろび行(ゆ)きぬ。
 
涙川(なみだがわ)つきざる水(みず)澄(す)みわしれど、
往(ゆ)きにしは世(よ)のとこしへ手(て)にかへらず。
人(ひと)は云(い)ふ、女(め)のうらみを重(おも)き石(いし)と
胸(むね)にして水底(みぞこ)踏(ふ)める男(を)の子(こ)ありと。
 
枯蘆(かれあし)のそよぐ歌(うた)に、葉(は)のこと〓〓、
我(あ)をうらみ、たえ〓〓なす声(こえ)ぞこもれ。
見(み)をろせば、暗(やみ)這(は)ふ波(なみ)ほのに透(す)きて
我(あ)をさそふ不知界(しらぬよ)のさまも見(み)ゆる。
 
真袖(まそで)たち、身(み)を浄(きよ)めて長年月(ながとしつき)、
祈(いの)りぬる我(あ)が涙(なみだ)の猶(なお)足(た)らでか、
狂(くる)ほしや、好(よ)きに導(ひ)けと頼(たの)みかけし
一条(ひとすぢ)の運命(さだめ)の糸(いと)、いま断(た)たれつ。
 
来(こ)ずあれと待(ま)ちつる日(ひ)ぞ早(は)や来(きた)りぬ。
かねてより捧(ささ)げし身(み)、天(あめ)のみちに
美霊(うまだま)のあと追(お)はむはやすかれども、
いと痛(いた)き世(よ)のおもひ出(で)また泣(な)かるる。
 
石戸(いはど)なす絆累(ほだし)かたき牢舎(ひとや)にして
とらはれの女(め)のいのち、そよ、古井(ふるゐ)に
あたたかき光(ひかり)知(し)らず沈(しず)む黄金(こがね)、
かがやきも栄(さか)えも、とく錆(さび)の喰(は)みき。
 
鹿(しか)聞(き)くと人(ひと)に供(ぐ)せし湯(ゆ)の沢路(さはみち)
秋摺(あきず)りの錦(にしき)もゆるひと枝(えだ)をば
うち手折(たお)り我(あ)がかざしにさし添(そ)へつつ、
笑(え)ませしも昨日(きのふ)ならず、ああ古事(ふるごと)。
 
半蔀(はじとみ)の明(あか)りひける狭庭(さには)の窓(まど)、
糸(いと)の目(め)を行(ゆ)き交(か)ひする梭(おさ)の音(ね)にも、
いひ知(し)らず、幻(まぼろし)湧(わ)き、胸(むね)せまりて、
うとき手(て)は愁(うれ)ひの影(かげ)添(そ)ふに痩(や)せぬ。
 
ほだし、(ああ魔(ま)が業(わざ)なれ。)眼(め)を鋭(するど)く
みはり居(い)て、我(あ)が小胸(をむね)は萎(しな)え果(は)てき。
その響(ひび)き、心(こころ)を裂(さ)く梭(おさ)をとりて
あてもなく泣(な)き祈(いの)れる我(あ)は愚(おろ)かや
 
心(こころ)の目(め)内面(うちも)にのみひらける身(み)は、
霊鳥(たまどり)の隠(かく)れ家(が)なる夢(ゆめ)の国(くに)に
安(やす)き夜(よ)を眠(ねむ)りもせず、醒(さ)めつづけて、
気(き)の沮(はゞ)む重羽搏(おもはうち)に血(ち)は氷(こほ)りぬ。
 
錦木(にしきぎ)を戸(と)にたたすと千夜(ちよ)運(はこ)びし
我(あ)が君(きみ)の歩(あゆ)ます音(おと)夜々(よゝ)にききつ。
その日数(ひかず)かさみ行(ゆ)くを此(この)いのちの
極(きは)み知(し)る暦(こよみ)ぞとは知(し)らざりけれ。
 
恋(こ)ひつつも人(ひと)のうらみ生矢(いくや)なして
雨(あめ)とふる運命(さだめ)の路(みち)など崢(こゞ)しき。
なげかじとすれど、あはれ宿世(すぐせ)せまく
み年(とせ)をか辿(たど)り来(こ)しに早(は)や涯(はて)なる。
 
瑞風(みづかぜ)の香(かお)り吹(ふ)ける木蔭(こかげ)の夢(ゆめ)、
黒霧(くろぎり)の夢(ゆめ)と変(かは)り、そも滅(ほろ)びぬ。
絶(た)えせざる思出(おもいで)にぞ解(と)き知(し)るなる
終(つひ)の世(よ)の光(ひかり)、今(いま)か我(あ)がいのちよ。
 
玉鬘(たまかづら)かざりもせし緑(みどり)の髪(かみ)
切(き)りほどき、祈(いの)り、淵(ふち)に投(な)げ入(い)るれば、
ひろごりて、黒綾(くろあや)なす波(なみ)のおもて、
声(こえ)もなく、夜(よ)の大空(おおぞら)風(かぜ)もきえぬ。
 
枯藻(かれも)なす我(あ)が髪(かみ)いま沈(しず)み入(い)りぬ。│
さては女(め)のうらみ生(い)きて、とはの床(とこ)に
夫(せ)が胸(むね)をい捲(ま)かむとや、罪(つみ)深(ふか)くも。│
青火(あおび)する死(し)の吐息(といき)ぞここに通(かよ)ふ。
 
ひとつ星(ぼし)目(め)もうるみて淡(あは)く照(て)るは、
我(あ)を待(ま)つと浩蕩(おほはて)の旅(たび)さぶしむ夫(せ)か。
愛(あい)の宮(みや)天(あめ)の花(はな)の香(かお)りたえぬ
苑(その)ならで奇縁(くしゑにし)を祝(ほ)ぐ世(よ)はなし。
 
いざ行(ゆ)かむ、(君(きみ)しなくば、何(なに)のいのち。)
悵(いた)み充(み)つ世(よ)の殻(から)をば高(たか)く脱(ぬ)けて、
安息(やすらぎ)に、天台(あまうてな)に、さらばさらば、
我(あ)が夫(せ)在(ま)す花(はな)の床(とこ)にしたひ行(ゆ)かむ。
 
〔甲辰(きのえねたつ)の年(とし)一月十六、十七、十八日稿(こう)。この詩(もと)もと前後(ぜんご)六章、二人の死後(しご)政子(まさこ)の父(ちち)の述懐(じゅっかい)と、葬(はう)りの日(ひ)の歌(うた)と、天上(てんじょう)のめぐり合(あ)ひの歌(うた)とを添(そ)ふべかりしが、筆(ふで)を措(お)きしよりこゝ一歳(いっさい)、興会(こうかい)再(ふたた)び捉(とら)え難(がた)きがまゝに、乍遺憾(いかんながら)前記(ぜんき)三章(さんしょう)のみをこの集(しゅう)に輯(あつ)む。〕
 
  梭の音の巻(政子の歌)〔現代語訳〕
 
赤く織物を流したような雲の影も
夕闇に隠れて行きました。私の望みであった(あの長の子への愛)も
深く黒く波も静かな淵の底に
まるで泥のように、二度と浮かんでは来ずに滅んで行きました。
 
涙の川の絶えることの無い水は澄んではいますが、
死んでしまった人は永遠に帰って来ないのです。
世間の人は言うのです。(自分の思いを受け入れてくれない)女性への恨みを重い石として
水底に沈んだ男がいたのだと。
 
枯れた葦に音を立てる歌には、葉の一枚一枚に
私を恨み、(息も)絶え絶えに吐いた声が籠もっているのです。
見下ろせば、闇を這ってくる波間に仄かに透けて
私を誘う(死後の世界である)「不知火界」の様子も見えるのです。
 
男性の袖を絶ち、身を清浄なものとして長い年月、
(あの人のことを)祈って来た私の涙は、まだ足りないのでしょうか、
ああ、狂おしいことです、良いように導けと頼りにしていた
一条の運命の糸も、今や断たれてしまったのです。
 
来ないでくださいと祈っていた日は来てしまいました。
以前から神に捧げていたこの身、天の道に
(既に天上の)良き霊となっている(長の子の)後を追うことは易しいことですが、
大変辛いものでもあった此の世の思い出にも、また泣かされるのです。
 
石の戸のような(堅固な)束縛の牢獄に
囚われた女の命よ、それこそ、古い井戸に
温かい光も知らずに沈んでいる黄金のようなもので、
輝きも栄光も、たちまち錆びの食うところとなるのです。
 
(人を恋う象徴でもある)鹿の声を聞こうとしてお供をした湯の沢の道に
秋の色を織り込んだ錦の燃える一枝を
ちょっと折って、私の髪に挿されて
お笑いになったことも昨日のことではない、昔のことになりました。
 
半蔀(小蔀)の明かりを引いた狭い庭の窓に、
糸の目を行ったり来たりするオサの音にも、
言いようもなく、幻想が湧き、胸に迫って、
(その幻想にかられて)疎かになった手は、愁いの影に痩せる思いをしたのです。
 
(父の)束縛は(ああ、それは悪魔の業とも言うべきものです。)眼光も鋭く、
見張っていて、私の小さな胸は萎んでしまいました。
その響きに、心を切り裂く思いにも似たオサを取って
何の見込みもなく泣いて祈った私は愚かであったのです。
 
心の目が、内面にのみ開いている身は、
霊鳥に、隠れ家である夢の国に
安心して眠ることもできず、目を覚まし続けて
気も衰えさせる重い羽ばたきに血も凍るのです。
 
錦木を戸に立てようと千夜も運んだ
我が君の歩みの音は夜ごと聞いたのです。
その日数が重なって行くのが、この命の
終わりを知る暦とは知らなかったのです。
 
私としてはあの人のことを恋しく思っているのに、あの人の恨みは、生きた矢となって
雨のように降る運命の道は、なぜこのように険しいのでしょうか。
嘆くまいとは思うのですが、ああ、私の運命には限りがあり、
三年(千夜)を辿り辿りながら来たのですが、もう終わりとなったのです。
 
(あの人のことを思って)瑞々しい風が吹いた木陰の夢は、
黒い霧の夢と変わり、それさえ滅んでしまったのです。
絶えることのない思い出に解かれる
最後の世(死後の世界)の光こそ、今の私の命の行くところなのです。
 
あの玉カズラの飾りもした緑の私の髪を
切りほどいて、祈り、投げ入れると
広がって、黒い模様をなす波の面は、
声もなく、夜の大空の風も消えたのです。
 
枯れた藻のような私の髪は、今沈みました。
ああ、女性の恨みは生きて、永遠の床に
夫の胸を、罪深くも、捲くと言われています。
青火のする死の吐息こそ、ここに通うのです。
 
一番星が、目も潤んで、淡く光るのは、
私を待つと、広々とした大空の旅を寂しく思う夫なのでしょうか。
愛の宮は、天の花の香りが絶えることのない
苑以外には、不思議な縁を祝福する世界はないのです。
 
さあ、行きましょう。(あなたなくして、何の命でしょう。)
悲しみに溢れる、此の世界の殻を高く抜け出て、
安らかに、天の台(うてな)に、さらば、さらば、
私の夫がいる花の床を慕い行きましょう。
 
(明治三十七年、一月十六、十七、十八脱稿。この詩、元来は前後六章、二人の死後、「政子の父の述懐」と、「葬りの日の歌」と、「二人の天上の巡り会いの歌」とを添えるべきでしたが、筆を措いてから既に一年。興趣を再び捉え難いままに、遺憾ではありますが、記した三章のみをこの詩集に集めることにしたのです。)

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