2010年 9月 21日 (火)

       

■ 准胝観音の胎内から巻物を取り出す 県立博物館が発表

     
  胎内に納められていた巻物の内容を確認する成海宥伊さん(左)  
 
胎内に納められていた巻物の内容を確認する
成海宥伊さん(左)
 
  県立博物館は20日、紫波町指定文化財の准胝(じゅんてい)観音菩薩坐像(沢口観音堂)の胎内から巻物を取り出したと発表した。中には、延宝8年(1680年)に数え18歳で亡くなった八戸南部藩初代藩主の二男・直常公の供養のため観音堂を建立し准胝観音菩薩を作ることになった経緯が記されていた。「紫波郡誌」に記されている内容と同じものという。巻物は調査終了後、再び観音像の胎内に戻される。

  県立博物館は7月に像の部分修復を行っており、今回は全面修復と胎内にある巻物の内容確認を目的に調査をした。

  巻物は、長さ15・8a、幅3a、奥行き3・5aの白木の箱に入れられ、観音像胎内の腰から首にかけての背部に納められていた。箱はにかわで固定され、ふたには墨で「上下」と記載があった。巻物の周囲は布で巻かれ、さらにその周囲を絹糸で幾重にも巻かれていた。布のつなぎ目には壺型の印が押されて封印されていた。

     
  巻物の表装  
 
巻物の表装
 
  取り出された巻物は延長151・5a、うち文字が書かれている本紙部分が141a、軸は木で上下の軸端は水晶で留められていた。

  巻物を判読したところ、「直常公は親孝行で文武両道の好青年だったが、延宝8年に亡くなり勝林山金地院(現在の東京都港区)に埋葬された。成海さんの先祖で、直常公の守り役をしていた初代の成海與右衛門慰が直常公亡き後、八戸藩の禄を離れて出家し無深を名乗り盛岡に住み供養の日々を送っていた。無深の深い信心、亡くなった直常公への深い気持ちに感激し、八戸藩では天和2年(1682年)に一堂を構え、准胝観音菩薩1体を納めた」とする内容だった。文末には前南禅剛室叟の文章であることが記されている。

     
  県立博物館が撮影した准胝観音菩薩坐像  
 
県立博物館が撮影した
准胝観音菩薩坐像
 
  剛室とは、佐々木勝宏学芸員によると、当時、金地院の住職をしていた僧侶という。この文章は沢口観音堂、准胝観音菩薩が完成の折、2代藩主直政公か母親の霊松院(初代藩主直房夫人)が剛室に依頼して書かせたと推定している。

近世こもんじょ館を主宰する工藤利悦さんは「この文の写しは八戸藩にもあったはずだし、志和代官所、成海家でも所蔵していた可能性がある」と話す。写しは大正時代までは紫波郡に存在したようで、大正時代に発行された紫波郡誌に、名蹟誌の沢口観音堂の由来書として巻物と同じ文面が記載されている。

  調査を依頼した沢口観音堂第13代別当の成海宥伊さん(72)は「観音像の胎内に何か入っているということは伝えられていた。志和地区は八戸藩の領地、八戸からここに来る子どもたちに歴史を知ってもらいたいから今回の調査をやってもらった」と話している。

  巻物は成海さんの意向により調査後、再び胎内に戻される予定になっている。

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