2010年 9月 23日 (木)

       

■ 〈音読・現代語訳『あこがれ』石川啄木〉21 望月善次 鶴飼橋に立ちて

 故郷の北上川に架かる鶴飼橋は、啄木のお気に入りの場所の一つ。そして、この橋こそ、「詩の領域」を守る聖なる場所なのです。
 
〔橋(はし)はわがふる里(さと)渋民(しぶたみ)の村(むら)、北上(きたかみ)の流(ながれ)に架(か)したる吊橋(つりばし)なり。岩手山(いわてさん)の眺望(ちょうぼう)を以(もっ)て郷人(きょうじん)賞(しょう)し措(お)かず。 春暁(しゅんぎょう)夏暮(かぼ)いつをいつとも別(わか)ち難(がた)き趣(おもむき)あれど、我(われ)は殊更(ことさら)に月(つき)ある夜(よる)を好(この)み、友(とも)を訪(と)ふてのかへるさなど、幾度(いくたび)かこゝに低回(ていかい)微吟(びぎん)の興(きょう)を擅(ほしいまま)にしけむ。〕
 
比丘尼(びくに)の黒裳(ころも)に襞(ひだ)そよ〓〓
薫(くん)ずる煙(けむり)の絡(から)む如(ごと)く、
川瀬(かはせ)をながるる暗(やみ)の色(いろ)に
淡(あは)夢心(ゆめごころ)の面〓(おもぎぬ)して、
しづかに射(さ)しくる月(つき)の影(かげ)の
 
愁(うれ)ひにさゆらぐ夜(よる)の調(しらべ)、
息(いき)なし深(ふか)くも胸(むね)に吸(す)へば、
古代(ふるよ)の奇琴(くしごと)音(おと)をそへて
蜻火(かげろひ)湧(わ)く如(ごと)、瑠璃(るり)の靄(もや)の
遠宮(とほみや)まぼろし鮮(さや)に透(す)くよ。
 
八千歳(やちとせ)天(あめ)裂(さ)く高山(たかやま)をも、
夜(よ)の帳(ちやう)とぢたる地(つち)に眠(ねむ)る
わが児(こ)のひとりと瞰下(みおろ)しつゝ、
大鳳(おほとり)生羽(いくは)の翼(つばさ)あげて
はてなき想像(おもひ)の空(そら)を行(ゆ)くや、
流(なが)れてつきざる『時(とき)』の川(かわ)に
相(あい)噛(か)みせめぎてわしる水(みず)の
大波(おおなみ)浸(をか)さず、怨嗟(うらみ)きかず、
光(ひかり)と暗(やみ)とを作(つく)る宮(みや)に
詩人(しじん)ぞ聖(せい)なる霊(れい)の主(あるじ)
 
見(み)よ、かの路(みち)なき天(あめ)の路(みち)を
雲車(うんしや)のまろがりいと静(しず)かに
《使命(しめい)や何(なに)なる》曙(あけ)の神(かみ)の
跡(あと)追(お)ひ駆(か)けらし、白葩(しらはなびら)
桂(かつら)の香(か)降(ふ)らす月(つき)の少女(をとめ)、
《わが詩(し)の驕(おご)りのまのあたりに
象徴(かたど)り成(な)りぬる栄(はえ)のさまか。》
きよまり凝(こ)りては瞳(ひとみ)の底(そこ)
生火(いくひ)の胸(むね)なし、愛(あい)の苑(その)に
石神(せきじん)立(た)つごと、光(ひかり)添(そ)ひつ。
 
尊(とう)ときやはらぎ破(やぶ)らじとか
夜(よ)の水(みず)遠(とお)くも音(おと)沈(しず)みぬ。
そよぐは無限(むげん)の生(せい)の吐息(といき)、
心臓(こころ)のひびきを欄(らん)につたへ、
月(つき)とし語(かた)れば、ここよ永久(とは)の
詩(し)の領(りやう)朽(く)ちざる鶴飼橋(つるがひばし)。
よし身(み)は下(した)ゆく波(なみ)の泡(あわ)と
かへらぬ暗黒(くらみ)の淵(ふち)に入(い)るも
わが魂(たま)封(ふう)じて詩(し)の門(と)守(まも)る
いのちは月(つき)なる花(はな)に咲(さか)かむ。
           《甲辰(かのえたつ)一月二十七日》
 
  鶴飼橋に立ちて〔現代語訳〕
 
〔(鶴飼橋という)橋は、私の故郷の、渋民の村にあり、北上川の流に架けられている吊橋です。(この橋からの)岩手山の眺望は素晴らしく、故郷の人の誰もが賞賛するのです。春の暁、夏の夕暮など、いつが良いかを決めるのは難しいのですが、私としては、特に月が出ている夜が好きで、友人を訪ねて、帰る時など、幾度となく、ここで低く吟じたりする楽しさと言ったら比べるものがないのです。〕
 
尼さんの黒い裳の襞が、そよ〓〓と揺れて
薫りを立てる煙が絡むように、
川の浅いところを流れる闇の色に
淡い夢心地のベールのように
静かに差して来る月の光は
愁いに揺れる夜の調です、
息をして、深く胸に吸うと、
古代の珍しい琴の音を添えて
蜻蛉の火が湧くように、瑠璃色の靄が
遠い宮を、幻のように鮮やかに透き通らせるのです。
 
八千年の空を裂く高い山をも、
夜の帳に閉じた大地に眠り
私は一人見下ろしながら、
大鳳は、生き生きとした羽の翼を挙げて
果てもない遥かな想像の空を行くのでしょうか、
流れて止むことのない、『時』という川に
噛み合いながら、せめぎ合って走る水が
大波を浸さず、怨みをきかず、
光と闇とを作る宮において
詩人こそは、聖なる霊の主なのです。
 
御覧なさい。あの路なき天の路を
雲車の回転は、大層静かに
〈何の使命でしょうか〉曙の神が
跡を追い駆けたのでしょうか、白い花びら
桂の香りを降らす月の少女よ、
〈私の詩の驕りもそのままに
形を作った栄えの様子でしょうか〉
清さは瞳の底に固まり、
生命火が燃える胸もないのです、愛の苑に
石神が立つように、光が添っているのです。
 
尊い柔らかさを破るまいとしてでしょうか
夜の水は、遠く音も沈んだのです。
戦いでいる無限の生命の吐息よ、
心臓の響きを、橋の欄干に伝え、
月と語ると、この場所こそ、永久の
詩の領域を朽ちさせない鶴飼橋なのです。
たとえ、私の身は、橋の下を行く波の泡となり
帰らぬ暗黒の淵に入るようなことがあっても
魂を閉じ込めて、詩の門を守り
生命は、月にある花に咲くでしょう。
            (明治三十七年一月二十七日)

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