2010年 9月 25日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉179 岡澤敏男 烏泊山と大沢坂峠

 ■烏泊山と大沢坂峠

  「盛岡附近地質調査」においてB班3名(賢治、小菅健吉、細山田良行)が担当した区域で第三紀層より成る烏泊山および大沢坂峠の地名が「報文」のなかに認められます。

  烏泊山は3名による合同調査、大沢坂峠は夏休みに入ってから賢治が単独で調査したものと推察される。これらの地質が流紋岩質凝灰岩および安山岩質凝灰岩によって構成される特色をもち、大沢坂峠付近では半熔頁岩(はんようけつがん)の構成があり岩石の空隙に玉髄を充たすという。

  大沢坂峠に産出するものは「殊に緻密にして黒色の岩体中に細き白斑を散布し」と述べているのは賢治の調査によるとみられる。

  賢治の流紋岩(リバライト)好みはよく知られている。賢治が初めて流紋岩に接したのは鬼越山でした。鬼越山そのものが流紋岩だといわれる。流紋岩には節理や穴が多く、そんな割れ目に石英の結晶が沈殿してメノウや玉髄とよばれる鉱物を形成するという。

  盛岡中学生になったばかりの1学期に、賢治は級友と鬼越山に鉱石採集に訪れメノウを採取したのだからよっぽどうれしかったのでしょう。つぎの短歌を詠んでいます。
 
  鬼越の山の麓の谷川に瑪瑙のかけらひろひ来たりぬ
 
  また盛岡高等農林1年生(大正4年4月)のときにも鬼越山を訪れて「玉髄のかけらひろへど山裾の紺におびえてためらふこゝろ」と詠んでいますが、これら鬼越山の玉髄と比較して大沢坂峠で採取したものは素晴らしい結晶だったのでしょう。「殊に緻密にして…細き白斑を散布」という「報文」記録から察知されるのです。

  この玉髄の採取とのつながりなのか、その年の初冬にも再度この峠道を通ったことが「疾中」詩群のなかの〔眠らう眠らうとあせりながら〕という12行の詩篇にうかがわれる。この作品は昭和3年8月の肺疾患療養中に作られたもので、高熱と発汗で眠られぬ午前4時ころの作とみられます。その後段に大沢坂峠をつぎのように回想しているのです。
 
  あゝあのころは
  わたくしは汗も痛みも忘 れ
  二十歳の軽い心臓にかへ り
  セピアいろした木立を縫 って
  きれいな初冬の空気のな かを
  石切たちの一むれと
  大沢坂峠をのぼってゐた
 
  この回想の「石切たち」の一団は大沢坂峠を越えてどこに向かったのか。賢治はその石切場を承知していたのでしょう。大沢坂峠は高峰山から烏泊山へと南に連走する篠木山の鞍部で、峠の西側に越すと大沢大字外山の深い山腹に出る。

  地質は第三紀層より成り岩石はおおむね凝灰質で「下部は流紋岩質凝灰岩、上部は安山岩質凝灰岩」と「報文」にあるように、外山に建築材料の甘石(凝灰岩)の産出があったらしい。

  『滝沢村誌史』(「近世の南部藩」第四節(石材)849行)によれば「甘石(凝灰岩)は大字篠木外山の石倉山にある。発見年代不詳。昭和十五年々間産出額約五百円」とあり、賢治は大正5年夏の地質調査の際に露頭していた甘石の採掘場を視察していたのかも知れません。

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