盛岡タイムス Web News 2011年 3月 27日 (日)

       

■ 津波に追われ逃げた日 山田町で被災、澤田昭博

大魔神に引き寄せられるかのように、3月11日午後1時、妻の実家がある山田町に到着した。いつものように宮古で昼食をとってから向かっていれば、国道45号線で津波に飲み込まれていたかもしれない。

  義母(88歳)が、急性黄疸症で釜石病院に入院手術を受け10日前に退院していた。せめて週末くらいは介護にと、訪ねた矢先の2時46分。実に長い地震に震えた。

  家が倒壊するのではと思いつつ、間違いなく津波がやってくると直感した。渋滞になるから「まず車を出せ!」と言われ、高台に走らせた。幸い家に駆け戻る途中で避難する家族に出会い、一緒に逃げた。

  山田湾全体を見渡せる位置ではなかったが、今逃げてきた道を濁流が押し寄せてきた。関口川の河口部分から白い水煙とも、薄茶色の土煙ともつかないしぶきとともに、押し流されてきた家々の屋根が連なっていた。

妻の実家の前には、元船主の大きな3階建ての御殿があった。この白壁の家が傾きながら川を遡上してきたのには驚愕した。これで今までいた家はなくなったと観念した。

     
  山田町役場前で燃え盛る火(12日午前6時20分)  
 
山田町役場前で燃え盛る火(12日午前6時20分)
 
  津波の第1波が去った後、道路や畑には、有形の船や車・家の残骸と、おびただしいがれきの山が残っていた。悲鳴ともため息ともつかない声があちこちから上がった。

  第2波の津波や余震に脅えながら外で避難していたが、やがて夜を迎えた。近くの津波被害から免れた親戚の家に、いったんお世話になることにした。ただ、停電と断水のため、身を寄せ合って暗く寒い一夜を過ごすことになった。

  震災後、中心市街地は火災に見舞われていた。時々外に出ては、その様子をうかがった。消火活動は一切できなかったから、火の勢いは強まるばかりだった。皮肉にも停電時の星空は、真に美しかった。冬の星座オリオン座や北斗七星がきらめいていた。

  山田町役場に隣接する中央公民館に避難していた人たちが真夜中、暗闇の中を移動させられて来た。私たちも家を後に、移動を開始した。避難所ではない特養老人ホーム平安荘に、特別な計らいで受け入れてもらった。

  すでに、車いすの方・寝たきりの方などで、フロアーは埋め尽くされた。余震のたびにガラスが割れる恐怖と寒さに震えての一夜だった。

  翌日は、朝食とも昼食ともつかない時間帯に、2人でおにぎりを1個、夕方におにぎり1個の差し入れがあった。

     
  山田町役場から陸中山田駅方向を見渡した市街(13日午後4時50分)  
 
山田町役場から陸中山田駅方向を見渡した市街(13日午後4時50分)
 
早朝、役場前に様子を見に戻ると、朝日と朝焼けの空の下、中心市街地は火の海と化していた。LPガスボンベや車のタンクの爆発音が不気味に鳴った。見ているだけで、ため息と涙がとめどもなく出るだけだった。

  情報源は、電池の携帯ラジオのみであったが、なぜか山田の災害状況は一切なかった。実は、高台にある役場前まで津波が押し寄せ、地階部分に設置されていた防災無線が水浸しとなり、県との連絡が断たれたためだった。まさに陸の孤島となっていた。

  間一髪生きのびた人たちは、わずかな水やおにぎりを分かち合い、助け合いが始まった。避難者同士の目撃情報交換も始まった。まず、家族・親戚・友人・知人の安否から、自分たちのまだ見ぬ家の様子、町の状況を聴くだけで空恐ろしかった。

  観光客にカキの食べ放題で知られる大沢地区は、ほぼ壊滅後に火災が発生。アサリの潮干狩りで有名な織笠川河口に架かる織笠大橋の上を津波が越え、織笠地区は全域水没後火災発生。船越半島田の浜地区の高台にある住宅地まで津波は押し寄せ、さらに大火発生。

  逃げ切った人はまるで映画のようだったと言う。舟で逃げ出した人は、意識を失い気がついた時は山田湾の大島に打ち上げられ、奇跡的に助かったという。たぶん、半島の低い所「鯨と海の科学館」あたりを舟ごと山田湾へもって行かれたのだろう。

     
  陸中山田駅前は焼け焦げたがれきで埋まった(13日午後5時25分)  
 
陸中山田駅前は焼け焦げたがれきで埋まった
(13日午後5時25分)
 
  海水浴場で知られる浪板海岸の松原は、ほとんど失われた。浪板観光ホテル1階部分までやられたなどなど、信じられない情報が入ってきた。あの美しい三陸の情景はすっかり姿を変えてしまったに違いない。

  「地震雷火事親父」世の中の恐ろしいものを順に並べたてた俗諺がある。しかし、今回はマグニチュード9・0という巨大地震のあとに、10bの防潮堤をもなぎ倒す大津波が、津波が去った次はすべてを焼き尽くす火災が発生し街中を焦土にした。

  一瞬にして、家や車家財道具すべてを奪われ、着の身着のままの避難民を襲ったのは、交通網の寸断による食料不足。停電・断水・灯油不足から来る寒さ・医薬品不足は、立ち往生どころか「寒さ往生」してしまった高齢者も出ている。

  2週間も経つと言うのに、いまだ分からない行方不明者の数。そして、福島原発事故による放射能汚染。止まる所を知らない。どこまで震災避難者に追い打ちをかけるのか?

  いまだ大震災は終息していない。「想定外の」「未曾有の」などさまざまな形容詞が付けられる今回の東北・関東大震災から、壊滅的な沿岸の市町村が再生するまで5年いや10年、どれだけの時間を費やすことやら。避難所生活の方々にとって、現実生活は厳しい。

  仮設住宅のめども立たず、居場所の定まらない状態だ。しかし、大きな津波からの小さな復興が、着実に始まってきている。自然が牙をむいた時、人間の営みはひとたまりもないということを、目の当たりにした。生かされた者にとって、本当の意味で「これからどう生きるのか?」という究極の問いを突き付けられたことになる。
  (盛岡市北松園、澤田昭博=文・写真とも)

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