盛岡タイムス Web News 2011年 4月 14日 (木)

       

■ 〈肴町の天才俳人〜春又春の日記〉28 古水一雄 「第二十三」総掃ひどもの記

 日記「第二十三」の見開きには筆書きで“続掃ひどもの記”と書かれていて、10月4日から10月の27日までの23日間がつづられている。
 
  10月13日には一家をあげて小作地の毛見(けみ)に出かけている。毛見は検見とも表し、検見取法といって江戸時代の徴祖法の一種である。稲の収穫時に作柄を調べ、その収穫量に応じて年貢の率を決定する方法である。

  少し詳しくその方法を述べると、領内の耕地一筆ごとの毛立(けだち)を見分けして内見帳(ないみちょう)や耕地絵図などを作成し、これらをもとに代官手代が村内の数カ所で坪刈りを行って村全体の収穫量を推定する。その後、代官が直接に坪刈りを行ってこの結果と照合し、その年の租税量を決定していたものである。(「日本史広辞典」による)

  久保庄はもともと都南の地で農業を営んでいた家系で、肴町に店を構えてからも農地は小作人を使って作物を作らせていたのであった。当然小作料が生じるわけであるが、日記の記述からすると厳密に収穫量を測定するのではなく、ある一定の小作料を決めていてあとは年々の作柄を目視しながら増減をしたもののように思われる。

  また、単に稲の作柄を調べるだけではなく、小作人たちの生活状況を把握しておく目的もあったものと思われる。

       
   
  「第二十三」とその右に見開きの 「続掃ひどもの記」  
  この年の毛見は2日にわたって行われている。
 
  (十月十三日、はつき二十五日)
    毛見行き、同行、久保寅主人、母、
   オいなサン、オみよサン、後(ママ)
   レテ父、(略)母ハ握飯ナド握ラレテ
   イル、股引穿キ脚絆ナドムスブ、朝飯
   クフテ居タラオみよサン来タ、余ハ夏
   帽、茣蓙、久保寅主人ヲ誘フテ連レテ
   立ツ、朝露、霧、秋ノ山、秋ノ雲、蔦
   紅葉、芒、草紅葉、松街道ヲクゞツテ
   永井村路ニ入ル、女子校生徒通ル、小
   説ノ趣構ヲ考ヒナドシテ行ク、一本松
   長作宅、爺ハ小豆ヲ打ツテ居タ、馬喰
   息子ノ馬ノ話、さね梨ノヤウナ梨二ツ、
   爺先達稲作見ル、赤キ稲田、青イ稲田、
   早稲、中手、晩稲、五郎兵衛、秋田シ
   ラシネ、さんた(この3つは稲の品種
   名か?)爺トキトキ南昌山ノ白雲ヲ眺
   メナガラ説明ス、余ハ縦横に飛ブ螽
   (いなご)ヲ踏ムマイ踏ムマイト行ク、万吉
   宅、親父ハ春カラ寝テ居テ今ハ繋ニ湯
   治ノ留守、三番息子、一人煎餅ヲヤイ
   テ居タガ、立ツテ案内ス、毬栗モ沢山
   散ラバツテ居ル小森ヲ過グル、アノ茅
   ノトコカラソノ芒ノドコマデ旦那サン
   ノドコデアストイフ、畔ヲグルグルメ
   グツテ立毛(意:稲の生育)ヲ見ル、
   中等、赤七分青三分、爺ノ案内デ街道
   ヲ出ル、母達ハモウ来テ居ルノカ小座
   敷ニハ茶ヤ林檎梨ナドヒロゲテ居ル、
   母ハ前園ノ稲荷ノ赤鳥居ノアタリヲ散
   歩シテ居ラレタ、遊ビニ出ラレタオい
   なサンオみよサン達モ帰ラレテ昼飯ハ
   重右エ門嬶芋の子汁ヲ出シタ、握飯三
   ツ、汁四ワン、永井ノ爺、隣リノ武兵
   エ爺モ杖ヲ引張テ来タ、酒ヲフル舞フ、
   嬶ノ先達デ稲作見ル持田ノ境界ヲグル
   グルメグル、武兵エ爺今年モ何日トカ
   ノ風デ花ガ散ツタトカクドク、コノ爺
   腰ガ曲ガツテ居テ憐レソウニ見エルノ
   ヲ利用シテイフクドキ方ガ永井ノ爺ナ
   ドノ及ブ処ニアラズ、畔草ノ短カイノ
   マデコボシテ居タ、母達は栗拾ヒ、余
   モ一ツ拾フタ、栗も沢山落チテ居ラン
   ノデ母達ハ何トカノ寺ノ観音ニ出カケ
   ラレル、秋ノ日ガカンカン照リツケテ
   来ル、今朝ノ曇りガ一点モナイ、四方
   ノ山ノ上ハ白雲ガメグツテ居タ、(後
   略)
 
  家族・親族一同で出かける毛見は、出来秋をめでる行楽も兼ねていたものとみえる。しかし、毛見を迎える小作人にとっては死活問題である。後半に登場する武兵エ爺の言動には、いかに小作料をまけさせようかという思惑が如実に表れていよう。
  “畔草ノ短イノマデコボシテイタ”には小作人たちの切実な思いが込められているのだが、春又春にとってはあくまでも地主の代行であって、そのような声に耳を貸すわけにはいかないのだ。
 
  (十月十四日)
    毛見行、久保寅主人、ばいサン(三
   弟)、余、酒筒ヲ片ニ下駄穿キ夏帽、
   青物町ノ肥臭キ、泉屋敷ノ案山子、本
   宮村ノ鳴子、喜六宅、爺は山陰ヘ草刈
   ニ、女達バカリ留守、掃ク、拭ク、気
   ノ毒ダツタ、前庭ニハ稲コキノ道具、
   コキ稲ナド莚ニヒロゲテ取リチラカレ
   テアル、小憩、婆ノ案内デ稲作見物、
   (後略)
  
  春又春たちの毛見の様子をみてくると、最初の長作宅以外では主人がほとんど不在なのである。しかも、留守の女性たちは春又春たちの来訪に慌てふためいているのである。つまり、訪問の事前通知はなされていない模様である。特に戸主の立ち会いを求めてはいないのは、小作料の決定はすべて地主側に委ねられていて、要するに作柄を見極めればよかっただけだからなのであろう。

  さて、2日間で訪れた小作人を挙げると、永井村の長作・万吉、見前村の古館重右エ門・武兵エ、本宮村の喜六、鹿島の仁左エ門であった(穀入れの際にはさらに数名が訪れてきている)。これだけでは耕作地の広さを具体的に確認することはできないが、いずれ久保庄ではかなりの広大な農地を所有していたとみてよい。


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