盛岡タイムス Web News 2011年 4月 15日 (金)

       

■ 〈胡堂の青春育んだ書簡群〜学友たちの手紙〉20 八重嶋勲 
   中々楽しからむとうらやましく奉存候

 ■岩動孝久

  38半紙 明治33年7月19日付
宛 北秋田郡荷上場村 菊池豐一様 御依頼
発 大館町 河口禎太 (秋田縣第二中学校名を抹消した封筒を使用)
        岩動高(孝)久外四人持参
拝啓
岩動高(孝)久氏外五(四)人、岩手縣盛岡市中学校生徒ニテ、今度当地方へ旅行被致候人々有之、御所蔵之石器土器拝見仕度希望ニ候間、毎度御面倒ニ御座候へども御垂示被下度御依頼申上候、右御紹介申上候也、
   七月十九日
               河口禎太
   菊池豊一様
              侍志(史)
  【解説】野村長一(菫舟)・岩動孝久(露子)・岩動康治(炎天)・猪狩見龍(五山)・猪川浩(箕人)の5人で、4週間にわたる「秋田俳句行脚」を行った。岩手県の俳壇史に残る事柄である。野村胡堂も随筆集『胡堂百話』に「俳句行脚」を書いている。その際に、北秋田郡荷上場村の菊池豐一氏所蔵の石器・土器を見学したいので、秋田県第2中学校の先生であろうか河口禎太氏を煩わし紹介してもらったのであろう。この手紙からは、岩動孝久(露子)が代表のように思われる。
 
  ■後藤清造

  39巻紙 明治33年7月22日付

宛 羽後国能代港畠町島田豊三郎様方 野村長一様
発 陸中石鳥谷(花巻市石鳥谷町好地) 後藤清造拝
去る十九日附大館よりの御はがき拝読候處、重ねて御目論見通り十七日御出発、十八日ハ花輪御とまりの由、昨日関君よりも来書有之、途にて君等とあひしが僅か一ばん□とまりて大館へ向け御出発なせりとの事なりしが、それより能代へ馬車ニテ御出之よし、十年ばかり前までハ当地ニテもありしも、今ハ見る事も出(き)ぬ馬車ニテ御出とハ定めし御愉快の事と奉察候、これより八郎潟を廻りて弘前から小坂、十和田と御帰りの趣、中々楽しからむと羨ましくぞ奉存候、松尾で村井君ニ、田山で金澤ニあへたりとの事なるが、村井君はこのまちおあい申せしが、金澤ハ如何有之候得しや、また通様とハ今朝分れたとの御文面なるが、さてハ通様も御出なりしや、田代ニハ十和田之方へでも御出なりしや、関君より折角来いとて参り候へども、立派な身とて意之如くにも行きかね、いやはや困り入り候、棋は中々面白へものじやが、ちと心細いとの事なるが、さぞ面白かるべくそして心細い處ありて、却ツて趣味も可有之と奉察候、如何之ものにや、御経験中之事なれバ、これハ後にてきヽ度き事ニ候、先ハ右まで一寸申上度、脳のくるい中とて乱筆ハ甚たに御免被下度奉願上候、 草々拝 
               清造拝
   盛岡勢さま方へ
二白 関君よりの来状ニよれバ、君等ニハ七夕頃ニまた花輪へ御出有るとの事なりしが、それまでニハ身の具合ニよりてハ花輪之方へ参るべく候、以上、
能代ハ北海有名之海港之事なれバ随分愉快に候事と奉存候、
 
  【解説】岩手の俳壇史上に残る有名な「秋田俳句行脚」。後藤清造は病身のため参加できなかったようである。その口惜しさが滲(にじ)む手紙である。
  『胡堂百話』の「俳句行脚」、『随筆銭形平次』の「半世紀前の吟旅」の随筆にある、盛岡中学生による4週間の秋田吟行はこの時期に行われている。
  「明治三十三年の夏である。今では、時代劇の大部屋ででもなければ見られない糸ダテという物を着て、高慢ちきな中学生五人が、秋田県下を四週間にわたって俳句行脚した。奥羽線も、花輪線もない時代だから、一日十里を、テクテク歩いて能代から秋田、それから八郎潟を舟で縦断したのだが、能代の浜で大変な騒ぎにぶつかってしまった。一行は岩動炎天、同じく露子、猪狩五山、猪川箕人、それに私の合計五人。(以下略)」
  「そして地方の俳壇で鳴ならしている能代の島田五工、川尻の佐々木北涯、女米木の石井露月らいずれもれっきとした成人たちを相手に、総計二十五回に及ぶ運座(俳句会)を行うなど、いろいろな珍道中を重ねて二十何日かで盛岡に帰ってきたのであった。」(「俳句行脚」より)
  随筆はかなり克明であるが、しかし足取りのはっきりしないところが多い。胡堂が現地から父に宛てた書簡の下書きに旅程が詳しくあって参考になるので今後の研究のため次に掲げる。
   「明治三十三年七月秋田縣ヘ旅行セシ
   節、土崎町より父上へ送れる書状
               野村長一
   電報為替相とどき申候、今日は秋田市
  ヨリ二里先の土崎ト云フ所ニ泊リ申候
  拝啓 天気不順ノ候ニハ不拘御家内様ニ
  ハ御清康の御事と察し奉り候、下而小子
  儀も無事ニテ甚活溌ニテ旅行致シ居候間
  乍憚御休神被下度候、其後正ニ御音信参
  ラスベキ筈の所何分旅行中の事故其ニマ
  デ及ビ兼ね甚御申訳無之次第ニ候、サテ
  私ハ其後、先日モ申上候通リ十六日盛岡
  泊、十七日荒屋泊、十八日花輪泊、十九
  日大舘泊、其翌日ハ馬車ニテ十六里ヲ能
  代ニ着シテ島田(五工)方ニ二十二日マ
  デ滞在シ二十三日能代発四里を行キテ鴨
  川ノ佐々木久之助(北涯)ト云フ所ニ三
  日滞留シテ、今日(二十六日)細雨ノ中
  ヲ十里余行キテ土崎ニ唯今到着致シ候、
  されば電報為替ノ儀は佐々木(北涯)方
  ニ来リシ夜電報為替来リシ由通知有之テ
  知リ申候ヘ故未ダ為替受取リ申サズ候故
  帰途十和田ヘ廻る旅費と致スベク存居
  候、
  自分勝手ノ旅行ニ電報為替マデワズラハ
  ス次第幾重ニモ御用捨(容赦)被下度御
  高志ニ感謝仕リ候、當地ハ一昨日来濃霧
  ニテ加フルニ昨日ノ大雨ノ為余程出水ノ
  様子ニ候、御地ニテモ此節嘸御満足ノ事
  と存候、
  旅行中ハ中々面白キ事多ク先日ナドハ八
  郎潟ニ水(舟)ヲ浮ベテ自ラ漕ギテ半里
  バカリ沖ニ出デ候、泊リタル家ヨリハ甚
  厚篤ナル世話ニ有(相)ナリ明日ハ秋田
  市ヨリ川辺郡の女米木村ト云フ所ノ石井
  (露月)ト云フ内(家)ニ泊ル筈ニ候、
  (行路凡九里)、二十八日ハ女米木ヨリ
  出デゝ秋田市泊、凡七里、二十九里(日)
  ハ船川泊、凡七八里、三十日ハ男鹿海岸
  ノ風景ヲ見テ舟ニテ男鹿ニ至リ泊、(尤
  風強ケレバ陸路)、三十一日ハ男鹿陸上
  ノ風景ヲ見テ再ビ鵜川ニ泊、(男鹿半島
  ノ風景ハ蓋シ東北唯一の絶景ニシテ凡
  (恐)ラクハ其壮大松島ニ一歩ヲ凌グト
  申居候、海岸ハ島散布シテ海水断岩(崖)
  ニ激シ、夫婦岩及様々の窟有之由ニシテ
  陸上ニハ漢(北宋)ノ蘇軾ノ流サレテ来
  リシ跡及秦ノ徐福ノ来タリシ所及、西王
  母ノ桃等ノ名所有之由、ナレバ是非一観
  致シタク候、其翌日一日ハ能代泊、二日
  ハ小繋泊、三日大舘泊、(大鉄道馬車ナ
  レバ能代ヨリ一日ニ参リ申スベケレ代価
  高キ故)、四日小坂泊、五日十和田泊、
  六日十和田滞在又ハ小坂泊、七日小坂又
  ハ花輪泊、八日花輪又ハ田山泊、九日田
  山又ハ松屋(尾)泊、十日松尾或ハ盛岡、
  十一日盛岡又ハ帰宅ト務義(義務)を定
  メ居リ候、尤強メテ日ヲ節滅(減)シテ
  盆前ニハ帰宅致シ度候得共男鹿ト十和田
  ハ是非一度見ル筈ニ候、
  此頃ノ雨ノ為ニ水揚器ハ不用ノ事ト存候
  得共、今其大体を申上候、尤同器ハ秋田
  致(至)ル所有之候得共労力ヲ費ス事多
  クシテ水ハ一尺五寸計リノ高サニ上ガル
  丈ニ候、尤水ノ量ハ田一日百刈以上二三
  百(文章はここで途切れている)
   筆書きの「旅程図」の中に
  是非早く帰宅致須べく候、先は用事のみ、
  余は後便とゆづり申候、匆々□□
   七月二十六日夜、旅泊にて 長一拝
     父上様」
  と言う父宛の胡堂の書簡の下書きである。胡堂の随筆や諸研究書と併せて読む時、歴史に残る奇抜で愉快な俳句行脚の様子がはっきり見えてくるものがあるだろう

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