盛岡タイムス Web News 2011年 4月 18日 (月)

       

■ 〈東日本大震災津波〉防潮堤が威力減殺 楢ノ木大学舎で柳沢忠昭さん 

     
  津波について講演する柳沢さん  
 
津波について講演する柳沢さん
 
  県立盛岡一高教諭の柳沢忠昭さんが17日、実兄の撮影した宮古市での津波襲来の映像を用いて防潮堤が津波の威力減殺に果たした効果や、第1波より第3、第4波が大きかった今回の特徴などを解説した。柳沢さんによると、明治三陸津波では余震が3年ほど続いたという。このため今回も相当程度の期間は地震に備えることが必要だとも話した。

  柳沢さんは、滝沢村巣子の結の蔵茶房で同日開かれた楢ノ木大学舎巣子分校第5回講座の講師を務めた。宮古市の兄の精一さんが撮影した津波のビデオ映像を持参。映像は同市赤前地区の高台から宮古湾内を捉え、黒い大波が家々を飲み込む様子を克明に記録している。柳沢さんの実家も被災した。

  宮古では「津波が押し寄せたときデータを取る検潮機が壊れて、あとで8・5bの記録が出たという。津波は湾の形によって高くなり、チリ地震津波のときも6bまで来た。奥に行くに従って高くなるのが津波の特徴。兄がビデオで撮影していた」と紹介。

  初め対岸に押し寄せた波を驚いて見ていたが、自分の方に来た波に周囲の人たちが恐怖の声を上げた。波は防波堤を乗り越え家々を押し流した。周囲の人たちは自宅が流される様を泣きながら見るしかなく「ここも大丈夫なのか」と恐ろしがる声が聞こえた。

  柳沢さんは「第一波が最大でなく今回も第3、第4波が大きかったと言っている」と精一さんの証言を付け加えた。

  同市田老地区の様子を紹介し「昭和三陸大津波では8割の人がやられたので、田老には万里の長城と呼ばれる防潮堤が二重に作られた。明治は15b、昭和は10bの津波が来て今度は20bは来た。防潮堤は役に立たなかったと言う人がいるが、役割は果たしたと思う。外側は根こそぎやられても内側は頑丈な建物は残ったので、これで人命的にかなり違ったのではないか」と話した。

  宮古市内では鉄筋コンクリートで根元から倒壊した建物があり、波の力を減殺する効果は果たしたという。

  被害の大きかった同市金浜地区については「宮古湾の入り口から直角に向いて、波のエネルギーをもろにこうむり、水門の接合が弱かったのではないか」と述べた。地形や状況によって被害が変わっているという。

  自身が体験したチリ地震津波と比較して「51年前と同じような光景を見た。友だちの家が1・5`流されて2階だけ地面にあった。あのときは遠い津波で30分くらいの周期で押し寄せ1日くらい続いた。波が引いてタコを捕るくらいの余裕があった。今回は短い周期で来ているので全然違う」と述べた。

  チリ地震の際も米軍の救援物資が届き、ホットケーキの缶詰を食べた思い出を語った。「チリのときは10年たたず元の生活に戻ったので、東北の人のねばり強さで復興するのではないか。今の被災地は食べ物や毛布は足りていて、人として生活するための物資、勉強するノートなどが不足しているという」と話した。

  「明治三陸大津波のときは3年間余震が続いた。次第にまばらになるが、今度も何年かは地震と付き合うことになる。龍仙洞の水が3週間経っても濁っていた。7日の余震でさらに濁り回復していない」と述べ、広い範囲で余震への備えが必要なことを訴えた。

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