盛岡タイムス Web News 2011年 4月 21日 (木)

       

■ 〈口ずさむとき〉225 伊藤幸子 「真野のかやはら」

 みちのくの真野のかやはら遠けども面影にして見ゆといふものを
                              笠女郎
 
  花の季節を迎えても、東日本大震災での被災地、加えて福島原発事故の被災には1カ月すぎても不安が消えない。3月末からは各地の避難所から、大規模内陸移動や集団疎開も始まった。福島では第一原発から20`圏内に出された避難指示に従って、県外避難も余儀なくされた。原発の膝元、双葉町では町ぐるみ埼玉県加須市に移転、南相馬市から群馬県に逃れた人々もあるという。

  限りなく沈みこんでゆくテレビ画面にいたたまれず、私は古い児童図書の箱をあけてみた。私にしては珍しく、目当ての本がすぐ見つかった。昭和50年刊の「第22回青少年読書感想文全国コンクール」の課題図書「虹のたつ峰をこえて」である。大正12年福島生まれの新開ゆり子作、大正15年生まれの北島新平挿絵で、緻密な聞き書きによるリアルな一巻だ。

  時は天明4年(1784年)の夏、陸奥の大方の藩では連年の凶作飢饉で、農民の大半を死なせてしまった。同じころ、栃木や茨城では越中越後より働き者の百姓衆を招き入れて藩再興につとめていた。そこで相馬藩でも、真宗信仰を許し寺も建てる約束で移住民を募ることにした。その先ぶれに越中の寺に生まれた二人の少年が先達に従って富山の砺波(となみ)をふりだしに親不知を越え、糸魚川、小千谷、会津若松を経て福島の相馬まで23日間で踏破する。命がけの探検隊の気概だ。

  江戸時代、百姓法度(はっと)の定めがあり、農民は勝手に生国から他に移るのは禁じられていた。しかし、この若い僧たちの幾度もの越中、相馬の往還により準備は整った。やがて文化10年(1813年)ついに越中から相馬への移民第一陣27名は、虹のたつ峰をこえて300里の行程を全うしたのである。食糧と鍋釜を持ち、赤児を背負い、むつき(おむつ)を笠の房に下げ、と道中記は苦労の中に笑いも添える。

  こうして相馬地方には続々と北陸からの移民が入り、総勢1800家族を迎え豊かな風土に生まれ変わったと、物語は告げている。

  200年前に移住した愛着の地に、今回容赦なく津波と放射能が襲いかかった。掲出の萬葉集歌「真野のかやはら」とは相馬郡鹿島町(合併前)の一帯。常磐線鹿島駅のホームにはこの歌碑が建っていた。急行「もりおか1号」が走っていたころである。今では記憶もおぼろ、この読書感想文もまた、子どもたちは全く覚えていないという。親の私だけが忘れがたく、今、36年も昔の本に言い知れぬなつかしさを感じている。
(八幡平市、歌人)

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