盛岡タイムス Web News 2011年 4月 22日 (金)

       

■ 〈胡堂の青春育んだ書簡群〜学友たちの手紙〉21 八重嶋勲
  「二十世紀」はいつごろ発刊のお積もりか

 ■後藤清造

  40 巻紙 明治33年9月1日付
宛 盛岡市馬場小路照井方 野村長一様
発 石鳥谷(花巻市石鳥谷町好地) 後藤清造拝 九月一日態持
 
過日ハ失禮御免被下度候、陳レバ本日ハ当地祭典にて中々盛のものに候ヘバ台車、楽隊等随分さわがしく楽(し)く候、
さて先日も御話申せし六〇五事件無論御任度なされ候はんが奮発は御返の薬ニて候得バ充分皆さまと御協議の上立ばになし被下度候、また二十世紀ハ何日頃御発刊の御積りニ候哉、以後ハ私も尽力すべくニ付きこれまでの惰罪ハ御ゆるし被下度候、次に校友会之消息ハ如何し候ニや、私ハなほ二、三日の後出盛すべく珍らかなるべし、本心御志らせ被下候、高橋算君へも君より可然願上度、餘ハ出盛之上接し可申述候、以上
               清造 拝
    野村詞兄
       机下

  【解説】「六〇五事件」とはどういうことなのか、文字がやわらかく独特な略字で読み取れず、意味が通らない文章である。「二十世紀」という別の企画があるらしいが、これもよく分からない。

  この手紙から、手紙の宛先の住所が変わる。盛岡に出て以来猪川塾に下宿していたのだが、猪川静雄先生夫人に関わるある事件によって猪川塾が閉塾となり、4年間暮らした猪川塾から馬場小路七照井勝知方に転居した。

  翌34年の3学期、有名な盛岡中学校生徒による学校糾弾のストライキが起こる。随筆集『胡堂百話』「ストライキ」に書いている「鷹匠小路の私の下宿に20人ほどが集まった」とあるが、書簡で見る限りでは、隣接の馬場小路に約9カ月下宿しており、鷹匠小路に下宿した形跡はない。長一が中心人物の一人だったという。
 
  ■後藤清造

  41 巻紙 明治33年9月6日付
宛 盛岡市馬場小路町七照井様方 野村長一様
発 石鳥谷(花巻市石鳥谷町好地) 後藤清造拝 九月六日
 
去る二日伊藤久治君ニ托し愚状差上仕候處御落手被下候哉、
私ハさる晩より氣候あたりと可にて病み昨日まで三日の間鶏卵と牛乳と尓て命をつ奈ぎ申候、今朝よりハ御飯をくふべく誠ニ嬉しく古ゝ尓筆とり一書啓上候、陳レバ□節伺上候六〇五や二十世紀の儀如何被され候哉、私ハ今日昼頃より手始め可申尤もろくなものも出来ねど一奮筆□□候、校友会之消息ハ如何や、皆なさにはあくまでも御反対之御意考尓や、□□もまた却ッて楽しかるべく候、阿部哲三さんハ御出校ニ候哉、澤田君も出校尓や、私ハ土曜日か日曜ニ出盛せんと考へ居り候、されど病から様子ニテハ延びるやハ勿論難計候、奈ほ申述べ度事山にあれど筆ふるふて能はねバ古ゝ尓て筆とめ申而候、草々
                清造拝
   野村君
  別紙これに御渡し被下度候、今世少年鶴□閣より来たなら御送り被下度奉願上候、
 
  【解説】運筆に癖があり、解読困難な手紙。意味が通らないところがあるが、病気のため鶏卵と牛乳で3日間しのぐぎようやくご飯がおいしくなり、筆をとったという。「六〇五」「二十世紀」はどうなったか、自分も一奮筆しようと思っている、という。夏休みの終わりで、校友阿部哲三さん(1学年上)、澤田君(同学年の稗貫郡宮野目村の澤田友司か、)の出盛の様子をうかがっている。後藤清造は、長一と同学年、盛岡中学4年生。

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