盛岡タイムス Web News 2011年 4月 23日 (土)

       

■ 〈東日本大震災津波〉「何かしたい」東京から古里へボランティアに

     
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 東日本大震災津波から1カ月が過ぎ、被災地では県内外のボランティアが活躍している。当初、ボランティアの受け入れに慎重だった市町村も徐々に受け入れ態勢を整え、支援を求めている。ただ、ボランティア用のテント村など宿泊場所を用意しているところはわずかで、自分で宿泊場所や食料、交通手段を確保できるボランティアの受け入れがほとんど。防犯上の問題やがれき撤去作業の妨げになるのを防ぐため、車中での宿泊も原則禁止だ。それでも、多くのボランティアが自分でできる活動を工夫しながら被災地の復興や被災者支援に汗を流している。
(馬場惠)

 東京都立川市の永盛崇之さん(38)‖大船渡市出身‖は震災後、2度目の帰郷。16日から3日間、大船渡市の災害ボランティアセンター(VC)に登録し活動した。

  16日午後の作業は大船渡町笹崎地内で被災したアパートの片付け。社会福祉協議会の職員に加え、大学生や会社員ら十数人が協力して3階まで水に浸かったアパートから泥や壊れた生活用品の残骸をかき出した。

  コンクリートの建物の土台はしっかりしているが、窓ガラスは割れ、2階には長さ約3b、太さ30aはある丸太が漂着したまま。3階には、住んでいた親子のものと思われる30足以上の靴が並べられ、ベビー服と一緒に黄色いスイセンが備えられていた。

  「人数も多いし、中が片付いているので、きょうは楽だよ」と永盛さん。天井からぶら下がったままで、邪魔になっていたコードを持参したワイヤーカッターで切り落とし作業スペースを広げる。さらに転がっていたプラスチックケースをちりとり替わりに中央に置き、スコップを抱えて窓まで往復する回数を減らした。

  「必要な道具や作業手順を工夫すれば、もっと効率よくできるんだけど…」。

  米軍基地で物資の搬送などを担当している永盛さんには、素人集団の作業がもどかしく見えるときもある。「正直、観光なのかボランティアなのか分からないような人もいる。みんな考えて動かなきゃ。活動したボランティアの意見を吸い上げて責任あるリーダーが次の活動に生かしてくれるといい」と話す。

  永盛さんの実家は津波で流された。震災直後のニュース映像で「家はもうない」と悟り、何かできることをしなければと必死で考えた。

  震災後、初めて古里に戻ったのは3月27日。東京から夜行バスで盛岡に着き、秋田でバイクを調達して大船渡へ向かった。バイクがあれば、車が通れない場所への物資輸送など一人でも協力できるボランティアがあると思ったからだ。幸い両親は無事。両親が避難している高台の家から作業現場に通った。

  2泊3日の滞在で携わった作業は、支援物資の運搬、被災した診療所の片付け、泥かき作業など。重機の運転免許を持っていたため、運転手が見つからずに放置されていたフォークリフトも動かした。中心市街地から遠く離れ、高齢者の2人暮らしで買い物に困っていた知り合いのおばあさんにはバイクで米を運んだ。

  4月になって、後片付けに参加した大船渡市三陸町の越喜来診療所が、同じ建物を使って診療を再開したニュースを聞いた。「自分でもびっくりするほどうれしかった。こんなに早く再開するなら、壁とか傷つけないように、もっと注意したんだけど」と苦笑い。「ボランティアをしても形に残らないことがほとんど。それが目に見える形になった」と喜びをかみしめる。休暇が取れたらまた古里に戻って汗を流すつもりだ。

  大船渡市の災害VCを介し活動したボランティアは3千人を超える。地元高校生や大学生も加え180人以上のボランティアが活躍した日もあれば、50人以下の日も。市外からの応援は約2割、残りは地元の高校生らが自主的に参加している。現段階で市の災害VCが紹介できる派遣先は限られているため、ボランティアの需要と供給はマッチしているが「被災者のニーズを拾い切れていない面もある」と担当者は説明する。

  東京都町田市の会社員山下浩司さん(36)‖大船渡市日頃市町出身‖も3月20日から1カ月間の休暇を取り、被災を免れた実家に泊まり込んでボランティアをした。「みんながちょっとずつ、できることをしなければ。地元の高校生も頑張ってる。若い人がやる気なので、きっとこの町は大丈夫」。


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