盛岡タイムス Web News 2011年 4月 30日 (土)

       

■ 〈賢治の置き土産〜七つ森から溶岩流まで〉209 岡澤敏男 藤布を織るタネリの母親

 ■藤布を織るタネリの母親

  賢治は中途で断念した「サガレンと八月」の続篇は「若い木霊」を経て「タネリはたしかにいちにち蔓を噛んでゐたやうだった」に継承したとみられている。

  その継承とはタネリ少年、犬神、禁忌への警告をする母親の登場という共通項によって印象づけられるのです。サガレンのタネリに対して、もう一人のタネリに賢治はホロタイという姓をつけてホロタイタネリと呼んでいる。

  「ホロタイ」とはアイヌ語系のことばで、「大きな森」の語意があるという。ホロタイタネリもサガレンのタネリと同様にアイヌ民族の血を引く少年ということなのでしょう。サガレンのタネリは海辺の小屋に住んでいる漁師の倅(せがれ)であるが、ホロタイタネリはどうなのか。

  この作品に先行する「若い木霊」の先駆形とみなされる「若い研師」(第2章)の背景に、「遠い死火山の雪も」という風景が描かれている。

  岩手山を「死火山」と形容した作品例は詩篇「遠足統率」や「気のいい火山弾」にもみられることから、ホロタイタネリは岩手山麓で狩猟を営むアイヌ系家族の一員と推定され母親は藤蔓の内皮の繊維で藤布を織っているのです。

  ただしアイヌの人たちが衣類の素材とするのは主にオヒョウ、シナノキ、ハルニレの木を利用し、山野に藤蔓があっても、その皮から繊維を紡ぎ衣類を織るという技能風習はまったくみられない。

  しかしホロタイタネリの母親が「仕事に藤蔓噛みに行って、無くしてくるものあるんだか。今年はおいら、おまへのきものは、一つも編んでやらないぞ」とタネリに語っていることからタネリが噛んでいた藤蔓(づる)は藤布を織るためのものだったと分かります。

  ところが藤布を織る伝承は信濃から山陰地方の山間部で自家用として織られる極めて限定された地域の織物であって、東北地方に藤布を織る伝承はなく、滝沢村では大正時代まで麻を栽培し麻布を織って股引(ももひき)、布カタビラを作っていたといわれる。

  また北海道のアイヌの人たちは前述のようにオヒョウの木の内樹皮の繊維で糸を作って反物を織りアツシ(厚司)と呼ぶ着物を作っていたのです。したがってアイヌ系のホロタイタネリの母親が藤布を織るという設定は虚構としか考えられないわけで、賢治がなぜ伝統的な麻織りを避けてこの地域で伝承しない藤織りの衣服を織るという虚構を導入したのか、それを考えてみる必要がある。

  すでに「オークランドの旅人」(76)で述べているが、藤蔓は何段階もの作業工程を経て生地となるものです。蔓の鬼皮をはぎ白い繊維質の中皮(アラソ)を得て陰干にして冬を待ち、木灰を入れて釜で煮ます。それを雪水の冷たい川でさらし一層白い繊維とする。

  「冬中かかって凍らして、こまかく裂いた藤蔓」とはこのアラソのことで、これを縒(よ)りつなぎ機織りにかけるのです。タネリが「ばたばた、棒で叩いて居た」のも、叩いた蔓(アラソ)を口でも「にちゃにちゃ」噛んでいたのも母親が縒るとき糸の滑りをよくするための手伝いだったのです。

  このように「タネリはたしかにいちにち藤蔓を噛んでゐたやうだった」という題名そのものが虚構と結ばれており、藤蔓でタネリの着物を作ることが、作品のモチーフに関わっている要件だったのではないかと推測されます。その要件とは「ふたりのタネリ」の母親が作る「鮭皮の上着」と「藤布のきもの」に潜在する呪術でした。

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