盛岡タイムス Web News 2011年 5月 21日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉212 岡澤敏男 タネリと「赤い鳥」

 ■タネリと『赤い鳥』

  今年の3月11日に世界的にも未曾有のM9・1という大地震(東日本大震災)が発生し、高さ20bを超す大津波が襲来して5月17日現在で死者1万5093人、行方不明者9093人という痛々しい被害者を数えるが、賢治が生まれる2カ月前の6月15日にも三陸大地震が発生して、その大津波によって死者2万7千余人(内県内1万8158人)の命が断たれたという。

  この三陸地震に誘発されたのか、賢治が生まれた8月27日から5日目の8月31日午前5時ごろ、和賀郡沢内村の真昼岳を震源とする陸羽大地震が起こったのです。

  堀尾青史著『年譜・宮沢賢治伝』によれば「初孫を心配して、波のようにゆれる地面をようやくふみしめながら鍛冶町まできた祖母キンの見たのは、二十歳の嫁イチが、えじこ(嬰児籠)の中の賢治をかばうために両手でしっかりえじこをかかえ、のりかかるように上体をおおってお念仏をとなえているすがたであった」と伝えている。

  母イチと賢治との絆はこの8月31日に結ばれ、賢治が昭和8年9月21日に死去するまでその絆はほぐれることはなかった。母を亡くした保阪嘉内へ賢治が「私の母は私を二十歳のときに持ちました。何から何までどこの母な人よりもよく私を育てて呉れました」と便りしたのは、嬰児の賢治と母の姿が念頭にあったものと推察される。

  また昭和8年9月21日の昼近くに、死期を予期した賢治は2階の病間で「南無妙法蓮華経」を唱題し、駆けつけた父に『妙法蓮華経』一千部の作成を遺言しました。家族らが階下に引き上げ母だけが残った。賢治は母から末期の水をいただき、オキシフルで体を清めたのち息をひきとった。この臨終の瞬間は母がひとりで立ち会ったわけで、賢治と母との絆がそれほど深かったのです。

  岩手山麓の早春の野原は去年の草穂で窪地に残雪が光り、柏も栗も目覚めずまだしんとしている。孤独感をおぼえたタネリは鴇に近づき、鴇に誘われるままに母の禁止した犬神の暗い森の前まで行ってしまう。ここまでは母親からの心理的自立の範疇(はんちゅう)に入るかも知れない。

  しかし藤蔓を噛んでいたタネリは森に背を向けて母のもとへ引き返すのです。このように自立を放棄したタネリを、伊藤新一郎氏は「作者自身の精神的な自画像」といっている。すなわち母イチをアニマとするマザコン賢治が〈大人〉の世界と〈母〉的な世界の精神風土を彷徨する作者(賢治)自身を、タネリに分身化して描いたというのでしょう。

  たまたま菊池武雄(『注文の多い料理店』の装幀・挿絵を担当)の斡旋があって『赤い鳥』の鈴木三重吉に生原稿を読んでもらうことになり、賢治は未発表作品のなかから「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」を送った。

  ところが、この原稿を没にした三重吉が菊池に「あんな原稿はロシアにでも持っていくんだなあ」と言ったというのです。三重吉の真意は不明だが、天沢退二郎氏は主人公の姓「ホロタイ」が「北方系であり、この名前が少年の〈土地の精霊〉的性格に相応していることは、三重吉も把握していたに違いない(だからこそ、《ロシアなら…》といった評言も出て来たのであろう)」と推測している。

  たしかに都市型の読者をもつ『赤い鳥』には、柏、黄金のやどりぎ、べごの舌の花、ヒキガエル、カタクリなど土地の精霊的な素材は消化不能だったとみられます。

 ■賢治の臨終と見送る母イチ

  堀尾青史著『年譜・宮沢賢治伝』より(抜粋)
 
…父や弟たちは、これ以上疲れさせぬために下へ
降りていった。母がひとり残った。
「おかあさん、おれもお父さんにほめられたもの
な。お水をください」
  母は水さしをわたした。その冷たい水を気持よ
さそうにのんだ。
「ああ、おいしかった」
「賢さん、なんぼおいしかったなす」
  母はそう言った。賢治は枕元のオキシフル綿を
とって首をふき、胸をふいた。
「ああ、いい。いいきもちだ」
  母は枕もとを片づけながら、
「ゆっくりおやすみんさい」
  と立って部屋を出ようとした。
  と、賢治の呼吸がいつもとちがう。
  潮のひくようである。
「賢さん」
  母は思わず叫んだ。倒れるように枕もとへくず
れおれると、賢治の手からオキシフル綿がポトリ
落ちた。午後一時三十分である。


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